19. 地図の端で一泊
係留綱が港の手へ渡った。
リコは船内へ戻り、扉を閉めた。いつもなら足元へ転がってくる白い塊が、今日はない。ポルを置いてきたのだと改めて思う間に、窓の外で桟橋が低くなった。
ナギが帆を調整した。橙色の布が朝の光を受け、船内へ映る影がゆっくり動く。リコは前の席で出発の時刻を書いた。五週目の三日目。昨日一度書いて消した日付の、次の日だった。
ミナト輪の屋根が丸く連なり、屋根と屋根の間に細い道が見えた。あの角を曲がって局へ通い、あの階段を、初出勤の日には急いで上った。町全体が、今は手で囲めそうな輪になっていく。
「見える?」
ナギが聞いた。
彼が示したのは、これから進む方の標識だった。
「見える。少し、後ろを見すぎてた」
リコは正面へ向き直った。ナギは笑ったが、続きを促さなかった。
船首の先に、白い雲の縁が伸びていた。道のような幅は見えない。空の航路は、船を支える力の流れが比較的安定している帯を、灯台や標識で案内したものだ。同じ青空でも、その帯から外れれば揺れや消費が増える。標識の位置を追うと、この広さの中に進めるところがある。初めて担当した便の朝とは違う仕方で、そのことが嬉しかった。
*
船が安定すると、リコは次の目印と通過時刻を控えた。
空を行く時間には、何も起こらない長さがあった。遠くの島がすぐには近づかず、窓の端の根が、いつまでも同じ形で見える。鉛筆を置いて眺めていると、根の間から滝のように見えた白い筋が、向こう側の雲の切れ間だったと分かった。
「水かと思った」
「僕も、前に」
ナギが言った。
リコは、もう一度白い筋を見た。よく見れば、向こうの青が透けている。ナギも最初は水だと思ったのだ。彼に教えるつもりで指した手を下ろさず、そのまま二人で眺めた。
島影を離れたところでは、横からの風に船が緩く傾いた。リコは手を止めた。ナギが帆を調整し、風と消費を確かめる。揺れが落ち着いてから、彼女も数値を書き取った。
記録のために空を見逃したと思ったが、次に顔を上げると、雲の穴を一羽の鳥が横切った。翼の先だけが光っていた。
鳥は雲の穴を抜け、遠い緑の島影へ消えた。リコの鉛筆は、次に書く時刻のところへ置いたままだった。
「あれくらいなら、大丈夫そう」
リコが言うと、ナギは一瞬だけ眉を寄せ、それから図の鳥のことだと気づいた。
「その話、僕だけが心配してたことになってない?」
「最初の定規が、忘れられなくて」
彼は返さず、前を向いた。耳の横で黄いろいスカーフの端が揺れた。
リコは笑いを収めて、次の通過時刻を記した。
*
コトリ島へ近づくと、風鈴畑が見えた。
畑に立つ細い支柱の間で、丸い風鈴がちらちら光っている。窓越しでは聞こえないのに、リコの耳は先に音を思い出した。高い音と低い音が、風の通る順にほどけていく。
今日の母は、どこから手を振るだろう。
そう思って桟橋を探すと、手を振る人はいなかった。かわりに、係留の担当が決めてあった場所から合図を出していた。
着いて綱が固定されるまで、リコも自分の仕事をした。
出発から約二時間だった。時刻を記すと、窓の向こうにスイが現れた。前掛けのまま、片手に何かを書いた紙を持っている。
「おかえり。まず、到着の確認ね」
娘の頬を見るのと、受け取る書類を見るのが、同じくらいの速さだった。
リコは笑いそうになり、先に局の連絡書を渡した。
「ただいま。昨日は風で、出なかった」
「こちらも強かったよ。詳しい知らせはまだ来ていないから、今聞いたところまで記しておくね」
スイは娘の記録を脇へ置き、今日の到着時刻を書いた。鉛筆の芯が短い。前掛けのポケットから削る道具を探しかけて、手を止めた。
書き終えてから、母はようやく両手を空けた。
「よく来たね」
肩へ触れた手が温かかった。
リコはその一言に、ただうなずいた。
*
充填棚は、事前に知らされていた場所に据えられていた。
局の設備担当が覆いを外すと、折り畳める枠と接続具が見えた。枠を開いて台に固定し、船の蓄力部品へ力を補えるようにした、携帯用の充填設備だった。荷物をしまう棚とは違い、使う船に合う接続具と、状態を確かめる人が要る。運んできた時の記録、設置した後の点検、その日の使用前の確認が、同じ綴りに続いている。
ナギが持参した控えと照らしている間、リコは周囲の通り道を見た。棚の脇を、籠を抱えた住民が普通に歩いていく。誰かの庭先に見たことのない機械がある、という眺めだった。そこへ局の札が一枚掛かっていることが、まだ少し不思議だった。
「朝、もう一度確かめてあります。昨日は風が落ちるまで覆っていました」
設備担当はナギへ説明し、到着時の風実の色と残量を一緒に確かめた。
船を浮かせてここまで運んだ分、蓄力部品の色は薄くなっていた。風実の中には、淡く光る浮糸という繊維が巻かれている。風や光から少しずつ得た力を蓄え、その力で船の重さを支える。帆を張って進めるのも、まず船体が浮いていればこそだった。
使った力をため直す充填には、こうした設備につないで待つ時間がいる。飛んでいる間に日を浴びていたからといって、使った分がその場で戻るわけではない。接続の状態を確かめてから充填を始め、途中でも担当が見に来るという。
ナギは時刻を書いたあと、しばらくその場に残った。
「次は、こちらの勤務で見ます」
設備担当が言った。
「船側で変わったことがあれば呼びます。あなた方は休んでください」
ナギは返事をし、手帳を閉じた。それでも一度振り返った。リコは彼を急がせず、自分の連絡用紙をしまってから隣へ歩いた。
設備担当はもう二人を見ておらず、棚の横へ腰を下ろしていた。ナギが振り向いたことにも気づかず、膝の綴りへ書き込んでいる。
*
スイのところで昼の卓を借り、二人は持参した物を開いた。
母は大鍋を運ぶ仕事に呼ばれ、座る前に立ってしまった。リコは慌てて、自分も手を貸すと言いかけた。
「今日は、そっちの昼ごはんを先に。こっちは人数があるから」
言葉どおり、戸口には鍋の反対側を持つ人が待っていた。
母が戻るまでに、リコはパンを一つ食べ終えた。故郷へ帰ると手伝わなければいけないような気になるのは、頼まれるせいばかりではなかった。
午後、水の補給場所へ行くと、桶を置く台が思ったより高かった。リコが両手で持ち上げると、横からスイが底を支えた。決めてあった量を入れ、明日の出発を見合わせる時の分も担当に確かめる。
島で待つ間は船の寝台を使い、局への知らせはスイが通常便へ託す。食料の控えを読んでいた母は、娘の荷を軽くたたいた。
「重いねえ」
「持ってみる?」
「今のは、感想」
リコは笑って取手を持ち直した。母は空いた片手で戸を大きく開けてくれた。
充填棚の勤務と交替は、局が手配していた。スイが一人で設備を見張るのではないと聞いて、リコは少し肩の力を抜いた。
「私が夜じゅう起きてたら、朝のかまどが困るでしょう」
母は娘の顔を見て言った。
「帰りも、ここの予定を確かめてからおいで。自分の家のように、って言うにも、使う人の都合はあるからね」
言い終えると、スイは卓の端の椅子を一脚引いた。
「いまは空いてる。座ってていいよ」
母の前掛けには、見覚えのない継ぎが当たっていた。古い布より少し青い。リコが指を向けると、鍋の角へ引っかけたのだとスイは言った。
「帰るたびに、何か変わってる」
「変わらないところも、たくさんあるよ」
母は鉛筆をポケットへ戻した。
「あの町で、仕事のほかに見たい物はある?」
リコは図を思い浮かべた。調べるべきものなら、すぐ並べられる。そうではなく聞かれたことが、少し意外だった。
「絵を描いた人が、どこに立って描いたのか。そこから、同じ方を見てみたい」
「そう。見られるといいね」
リコは椅子へ深く座り直した。卓の縁の小さな傷に、肘が当たった。昔からそこだけ引っかかる。
「お母さんが初めてミナト輪へ行った時は?」
「靴を買いに行った。こっちでは選べない色の」
「何色?」
「赤。似合うかどうか確かめたくて、何度も履かせてもらった」
母の足元には、かまど仕事のいつもの靴があった。リコは赤い靴の母を思い浮かべようとした。
「買ったの?」
「買ったよ。少し大きかったから、中に布を入れて帰った」
リコが笑うと、スイは自分の椅子も少し引き寄せた。
*
夕方前に、町との往来に協力する住民が訪ねてきた。リコが幼い頃から顔を知っている、舟の荷を扱う人だった。
彼は図の写しを見て、橋の手すりを指した。
「この前通った時も、こっちの支えが新しくなっていた。古い絵より色が明るいよ。屋根の雨樋も見えた」
ナギは日付を聞き、既に聞いていた目印と照らした。島影が重なって見える場所も、見る向きが変われば違うと教わった。
「小舟の道を、そのままなぞろうとはしないでね。そっちの船じゃ幅も風の受け方も違うから」
「はい。見つからない時は、戻ります」
リコは話を聞きながら、知っている顔が知らない町を語るのを眺めていた。
「私が小さい時も、向こうへ行ってた?」
「今と同じ寄り方じゃないけどね。君に道具の箱をのぞかれたことなら、何度もある」
「そんなに?」
「毎回、何か面白い物が増えてないかって顔をしてたよ」
リコは反論しかけてやめた。いまも、ほとんど同じ気持ちでいる。
明日、あの屋根の下で何を見つけるだろう。見せてもらえるだろうか。もう一度、図の屋根を指でなぞった。
*
日が傾く頃、二人は風鈴畑の脇を少し歩いた。
リコは、低い音のする一列をナギへ教えた。昔は背伸びをしても触れられなかった高さに、今は自分の目が近い。風が来ると、こちらが鳴り終える前に向こうの列が鳴り始めた。
「聞き分けられる?」
「同時だと、難しい」
「私も。知ってるふりをしたかっただけ」
ナギが笑った。
段々畑の向こうに雲海が明るく見えた。その先へ行くのは明日だ。まだ昼の光が残っていても、点検と充填の時間を削って進む日程ではない。
リコは遠くを眺め、帰り道へ足を向けた。
夕食はスイの家で、持参した豆と母の鍋を合わせて食べた。母は娘の仕事の話ばかりを聞こうとせず、向かいの家で新しい雨桶が大きすぎて戸を通らなかった話をした。
「戸を外したの?」
「雨桶の方を、別の場所へ置いた。戸は毎日使うから」
リコはボンゴの見本箱を思い出し、ナギと同時に笑った。何があったのか聞かれて話すうち、汁が冷めかけた。
母は温め直そうと立ちかけたが、リコが自分で椀を持った。
*
船へ戻ると、設備担当から点検の綴りを見せてもらった。明朝の確認時刻を約束し、二人は船内へ入った。
寝台の支度を終えると、船内は急に静かになった。
ナギは手帳を閉じたまま、丸い窓の向こうを見ていた。
「少し、怖い」
声が小さく、リコは最初、聞き違えたかと思った。
「明日?」
「うん。知らない場所で、戻るって言う方も」
彼女は窓辺へ腰を下ろした。島の灯りが、水のないところで船の腹を照らしている。
「私も。会いたくて、あと少しって言いそう」
ナギがこちらを向いた。リコは笑ってごまかさず、窓の下の暗い所を見た。
「九十分は、進んでいい時間の上限。そこまで必ず進むわけじゃない」
「風や残りが合わなければ、その前に戻る。目印が見つからない時も」
ナギの指が、膝の上で手帳の角を押していた。
「私も、時計を見るよ。ナギが言うのを待たずに」
「頼む」
ナギの手が角から離れた。二人はしばらく窓の方を見ていた。リコの目が暗さに慣れると、向かいの岸に結ばれた小舟が見えた。風を受けるたび、細い綱が張っては緩んだ。
遠くで風鈴が鳴った。母の家で聞く時より低く、間が長い。同じ島でも、泊まる場所で夜の音は違った。
リコは寝台へ入り、掛け物を肩まで引いた。隣でナギが灯りを落とす前に、明朝の時刻を一度確かめた。
暗くなると、窓の外の小舟も見えなくなった。遠くでまた、低い風鈴が一つ鳴った。




