18. 出発しない朝
雨なら、まだ諦めやすかった。
雲の切れ間は桃の皮の内側のように淡く、白い船体には朝の光が当たっていた。リコは桟橋の手前で足を止めた。港の吹き流しが一息ごとに向きを変え、肩掛けの端が頬へ当たる。押さえると、今度は襟から風が入った。
今日は配属五週目の二日目。
旅のためにそろえた物は、すべて船に載っていた。
ナギが港の観測記録から顔を上げた。彼が口を開く前に、リコは手元の点検表を見た。吹き流しが示す風向と、観測記録の風の強さを、今回の荷量で飛べる範囲と照らす。帆へ横から強い風が当たれば船が傾き、姿勢を保つためにも風実の力を余計に使う。晴れていることだけでは、出航を決められなかった。普段なら数字の読み方を確かめてから尋ねるところだった。今朝は、延期の欄だけが先に目に入った。
「条件の外だね」
「うん。この風で、今日は出せない」
彼の声は、相談室で聞いた時より低く感じた。変わったのは声ではなく、すぐ後ろに船があることかもしれなかった。
帆を上げるための手袋を、リコはまだ両手にはめていた。
「町には、明日のつもりで伝えてある」
ナギはうなずいた。
「コトリ島には、今日の予定で伝えてある」
リコは手袋を脱いだ。片方の指先が裏返り、引っ張ってもすぐには戻らない。ナギが手を出しかけたが、彼女は首を振って自分で直した。
「局へ戻ろう。延期の連絡を出さなくちゃ」
桟橋を離れると、背中で金具の触れ合う音がした。ナギが停泊を続ける船の係留を港の担当と確かめていた。出発しないと決めても、船の仕事はなくならなかった。
通路の屋根の下で待つ間、リコは鞄の留め金を開けた。町へ渡す連絡書、その下に図の写し。いちばん上の封筒を少し持ち上げ、また元の位置へ押し込んだ。
隣の桟橋では、荷役の人が積みかけの箱へ覆いを掛けていた。一人が押さえると、もう一人が反対側を留める。風が入り込んで覆いが膨らみ、二人とも一度手を止めて、次の隙を待った。
リコはそこを見ていた。今にも留められそうな布の端が、指のすぐ先でばたついていた。
戻ったナギが、彼女の開いた鞄へ目を落とした。
「忘れ物?」
「ううん。全部ある」
ナギも手袋を脱ぎ、外したままの指を一度握った。
リコは留め金を閉じた。二人分の足音が、桟橋から陸の道へ移った。
*
ピッパは、二人を見るなり予定板の前へ立った。
「朝の観測は?」
「出発条件を外れています。今日は延期します」
リコが記録を渡すと、ピッパは出航の札を外した。板に細長い白い跡が残った。そこに自分たちの名前がないことが、思っていたよりこたえた。
マレは局の勤務表を開き、コトリ島の設備担当へ伝える変更と、町へ送る知らせを別に確かめた。
「通常便へ回します。こちらも待機になっているから、出るまでは局で預かりますね」
リコはうなずいて連絡用紙を取った。
町への到着候補は、五週目の四日目へずらした。出発の判断は次の観測後、コトリ島へ着けたらそこから通常便へ経過を託す。時刻欄には横線を引いた。
マレは返信の控えと日付を照らした。
「受入れの四日間には収まっていますね」
「はい。さらにずれて期間を外れる時は、新しい了承を待ちます」
知らせの先着を約束せず、町が仕事を止めて待たなくてよいことも添えた。港同士の短い灯り信号で連絡できる場所はあっても、アカリの町と局の間には、いつでも呼び合える通信の設備がない。延期の一行も、封筒に入れて舟へ預け、誰かが町まで運ぶのを待つことになる。
マレが読む間、リコは手袋の口をそろえていた。細い縫い目に、指を何度も滑らせる。
「ほかに、書きたいことは?」
「……今日、行きたかったです」
マレが顔を上げた。
「それは、会った時に話してもいいんじゃないかしら」
リコは手袋を鞄へ収めた。短く笑おうとしたが、うまくいかなかった。
確認を終えた紙は封をされ、便の出発を待つ区画へ入った。隣にはコトリ島宛ての勤務連絡もある。仕切り板に、二通の封筒の端がそろっていた。
*
「午前中、ここを手伝ってもらえる?」
ピッパが示したのは、天候で積み替えを待つ通常便の袋だった。
「昼には交替。午後は船と持ち物の確認をして、早く帰ること」
「そんなに早く帰っても、することが」
「寝る準備があります」
リコの隣でナギが少しだけ顔を伏せた。笑ったらしい。
「ナギも同じです」
今度はリコが笑った。
二人は上着を掛け、仕分け台の両側へ回った。封筒の宛先と便名を確かめ、持ち越す物を別の袋へ移す。細い雨が窓を斜めにかすめ始めた頃には、指先がいつもの仕事の速さを思い出していた。
少し前まで、リコの目は自分たちの連絡書の袋へばかり戻った。だが、台の上にはほかにも届くのを待つ品がある。急ぐ表示のある荷も、そうでない封筒も、書いた人の今日は見えなかった。
窓口の方で、男の声がした。
「これ、明日には渡せると思ってさ」
男は風に乱れた髪を押さえ、布に包んだ浅い鉢を抱えていた。修理を終えた品を知人へ返したいのだという。窓口係は次の便の予定を説明し、時刻は確定できないと伝えた。
男は鉢を眺めて息をつき、それから包みの結び目をほどこうとした。
「だったら、今日は持って帰る。うちの店も、水漏れする鉢が一つあるんだ」
窓口係が笑い、受け付ける前の札を外した。
男は鉢を抱え直し、空いた手で帽子を深くかぶった。戸が閉じる間際、外の風へ何か言っていた。聞き取れなかったが、リコには少し可笑しかった。
町のあの高い屋根でも、誰かが雨樋を見上げて、似たことを言っているだろうか。
*
休憩前、ボンゴが畳みかけの見本箱を運んできた。
「旅に出ない日こそ、旅支度がはかどる」
大きな底板を机へ立てかけてそう言うと、板の陰に本人の顔が隠れた。
「その箱は、持って行かないって決めました」
「知っている。これは、小さくなるところを見せに来た」
ボンゴが留め具を外した。片側がきれいに折れ、もう片側が開き、箱は元より幅のある平たい物になった。
ピッパが通路を見た。
「小さくなる途中ですか」
「厚さでは、もう勝っている」
ナギが向こう端を支え、リコは重なる順番をボンゴに聞いた。最後の一面が収まると、ようやく一人で持てる形になった。中身のない立派な箱は、局で別の見本に使うため、棚の下へ戻された。
ボンゴの仕事台には、裁ち落とした丈夫な紙と細い布が残っていた。
リコは鞄から町の図の写しを出した。折り目を何度も開いたため、端が少し毛羽立っている。
「これの縁を、補強できますか」
「任せなさい。額縁は?」
「いりません」
「脚は?」
「図が自分で立たなくても、私が持ちます」
ボンゴは満足そうにうなずいた。
「では、その手の分だけ軽くしよう」
薄い当て紙を裏へ添え、折り目を避けて縁を留めた。彼の大きな指は、細い仕事になると迷わなかった。雨の中で広げずに済むよう、乾いた文書入れへ収まることも確かめる。
補強を終えた図で、あの大きな鳥は前と同じように翼を広げていた。
「これ、どれくらい大きいんだ」
ボンゴが聞いた。
「まだ分かりません」
ナギは答え、リコと目が合うと少し笑った。
「帰ったら教えてくれ。梱包を頼まれた時に困る」
「頼まれないと思います」
リコは補強された縁を指で確かめ、ボンゴに礼を言った。今度開く時は町へ向かう途中で、と願いながら文書入れを閉じた。
*
昼の汁物は、いつもより熱かった。
正確には、外へ持ち出すはずだった昼食を局で食べ、湯を足して温め直せたのだった。ナギは両手で椀を持ち、リコはパンの硬くなった端を浸した。
隣の卓にいたピッパが、窓の外を見て言った。
「ポルの寝床は乾いてる。夕方の世話も予定どおり。そっちは心配しなくていいから」
旅の間に頼むことは、昨日までに確かめた。それでも、船にいつもの白い塊がいないことを考えると、リコは時々振り返りたくなった。
「行く前に、顔だけ見てもいいですか」
「寝ていたら、起こさないこと」
昼休みの残りに宿舎へ寄り、ナギの部屋をのぞいた。ポルは専用の籠の布を片端から丸め、真ん中へ埋まっていた。墨色の足が一本だけ出ている。
ナギが布の端を直そうとしかけ、やめた。
「あれで、いいみたい」
リコがささやくと、彼はうなずいた。
いつもなら返事のように鳴くこともあるのに、今日は耳さえ動かなかった。見送ってもらうつもりで来た二人が、寝床のそばをそっと離れた。
*
午後、雨の切れ間に船へ戻った。
ナギが港の担当と留め具を確かめる間、リコは持参食料の包みを開いた。今日食べた分を補う物と、先に食べる物を分け、積み荷の表も直す。濡れた雨具は船の乾燥棚へ掛けたが、その下の布まで湿っていたので取り替えた。
乾いていたはずの靴の中敷きも取り出した。朝と同じ並びに戻そうとしていた荷物は、いつの間にか別の順番になっていた。
最後に、自分の小さな着替え袋を簡易寝台の隅へ収めた。仕事の書類とは違う柔らかさだった。靴下の予備、洗面用の布、夜に羽織る物。それがこの船で泊まる日を、急に身近にした。
「町って、夜は何が聞こえるかな」
戻ってきたナギに聞いた。
「風は、聞こえると思う」
「それはここでも聞こえる」
「じゃあ、かまどを片づける音」
リコは、図に小さく描かれた煙突を思い出した。
そのそばで眠って、朝には知らない戸が開く音を聞く。まだ見たことのない場所で顔を洗う。着替え袋を閉じたあとも、リコは寝台に腰を掛けたままでいた。
「本当なら、今夜はコトリ島だった」
ナギは乾燥棚から外した布を畳んでいた。
「スイさんにも、会えたね」
「うん」
今ごろ母は何を焼いているだろう。二人が来なくても、いつもの分の火は焚かれている。立ち上がる時、リコは寝台の縁を一度だけ強く押した。
ナギは船内灯を消す前に、窓の隅を拭いた。
「明日の朝、ここから見よう」
何を見るかとは聞かなかった。
*
夕方の観測では風が弱まり、翌朝も出発条件を確かめられる見込みになった。局では行程を一日ずらして更新し、町への候補日が受入れ期間の中にあることを照合した。
次の出発判断は翌朝。局の予定板には、その時刻が書き足された。
リコは早い時間に宿舎へ戻った。空いた時間に図を開こうと思っていたのに、靴を脱ぐと急に足が重くなった。晴れた空の下で船を出さないと決めるのも、疲れる仕事だったらしい。
目覚ましを確かめ、横になった。
翌朝、港へ向かう道の水たまりに、橙色の旗が映っていた。
今朝の観測でも条件は範囲に収まり、ナギと二人で点検表を最後まで照合した。昼までの見通しも確かめ、ミナト輪を出る判断を局へ伝える。
ピッパが、予定板へ二人の札を戻した。
「いってらっしゃい。コトリ島での連絡を待っています」
リコは、昨日しまった手袋を取り出した。
指が、すんなり最後まで入った。
帆はまだ畳まれている。けれど丸い前窓の向こうには、昨日と同じ空が、今日は道として広がっていた。




