2. ふたりぶんの朝ごはん
ナギ:18歳、男性。青黒い髪、袖を折った藍色の作業着、薄い黄のスカーフ。顔立ちは整っているが、本人は服より工具の位置を気にする。ミナト輪郵便局所属で運航担当。
遠くから見れば、一つの島だった。
近づくにつれて、段々畑の間の小道が見えた。小道には荷車がいて、その脇を帽子を押さえた人が歩いている。リコは窓へ顔を向けたまま、その人が家の陰へ入るまで目で追った。
「何か見つけた?」
ナギに聞かれ、少し迷った。
「人が歩いてた」
「うん」
「地図に載ってる道を、本当に歩いてるんだなと思って」
口にすると当たり前すぎた。けれどナギは笑わず、帆を横切った雲の影を見ながら言った。
「僕は、窓が開いてるのを見るのが好きだよ」
リコはもう一度、島を見た。青い鎧戸が開いて、白い布が外へ揺れていた。
その窓にも、誰かがいるのだろう。
飛び立って一時間ほどで、行先の港の屋根が見えてきた。ナギが帆を絞り、ツバメ号はゆっくり係留場へ入った。綱が渡され、渡し板が掛かる。席の帯を外すと、ずっと力を入れていた膝がようやく緩んだ。
港の受取所では、机の向こうの職員が二人を待っていた。
リコは郵便袋を渡し、受渡しの控えを広げた。相手の読み上げる袋の番号に返事をする声が、思ったより大きく出た。署名された控えを受け取ると、端を曲げないよう鞄へしまう。
ひとつ、終わった。
船に戻って小籠を持ち出す。敷き布にくるんだパンの包みは、出発した時の形のままだった。紙に指を添える。あの温かさは、もう残っていない。
港の用事と船の施錠を終えたナギが、隣に来た。
「行こうか」
リコは籠を持ち直した。
今度は、紙の上の名前の人に会う。
*
坂は、窓から見ていたより急だった。
石畳の隙間に小さな草が生え、日向からは土の匂いがした。道端で籠を洗っていた女性に挨拶をすると、リコの持つ荷札をちらりと見て、「エダさんなら起きてるよ」と教えてくれた。
分かれ道を右へ曲がる。青い屋根の井戸はすぐに分かった。屋根の下の桶に光が跳ね、その先の家では、開いた窓から布巾が干されていた。
港から歩いて二十分ほど。
門脇の番地を確かめ、リコは扉を叩いた。
「郵便です」
中から椅子を引く音がした。
扉を開けたのは、小柄な年配の女性だった。前掛けで手を拭い、まず籠を、それからリコの顔を見た。
「エダさんのお宅で、よろしいですか」
「ええ、そうですよ」
「ミナト輪からのお届け物です。今日からこちらの便を担当する、リコといいます」
少し後ろで、ナギも名前を告げた。
「まあ。坂を上がってきたのね。どうぞ、そこへ」
玄関の内側の台へ、籠を置かせてもらった。エダは差出人の店名を見ると、包みの上を指で軽くたたいた。
「今週も、ちゃんと来た」
リコは紙袋を取り出した。
「丸パンを二つです。温め方の札も入っています。店の方から、温め直してもおいしいと」
「あの人は、会わなくてもうちの台所に口を出すんだねえ」
言いながら、エダの手はもう紙の折り目を開いていた。
丸パンの表面は、少し割れていた。焼いた時についた切込みだ。朝、包み越しに想像していたものより、ずっとしっかりした色をしている。
「この端が好きでね。焼き直すと、またいい音がするんだよ」
エダは受取りの欄へ署名し、鉛筆を返した。
エダはまだ開けていない温め方の札を、小さな鍋敷きの下へ挟んだ。リコは見ていた紙袋から手を離した。
「朝ごはん、これからなんですか」
「この便の日はね。お茶はもう飲んだんだけど、パンは待ってたの」
エダは顔を上げた。
「二人とも、少し食べていかない? 豆も焼いてあるから」
うなずきかけて、リコはナギを見た。
ナギは時計と、鞄から出した帰りの予定を見比べる。港での停泊時間には余裕を取ってある。リコも、戻るまでの徒歩と出航準備をたどった。
「三十分くらいなら」
「うん。風の見込みも変わってない」
小声で確かめ合い、エダへ向き直る。
「では、少しだけ。ご一緒してもいいですか」
「もちろん。お湯を足すから、手を洗ってらっしゃい」
*
食卓の窓から、隣の家の庭が見えた。風よけの低い壁に沿って、鉢が幾つも並んでいる。台所の棚には、大きさの違う皿が重ねてあった。
部屋の奥の椅子に、古い革の飛行帽が掛かっていた。
耳を覆うところが内側へ折れ、留め紐が背もたれに沿って垂れている。
リコはそちらを見たあと、食卓へ目を戻した。
「椅子、使っておくれ」
エダの指した来客用の一脚へ、リコとナギが同時に手を掛けた。
「あ、どうぞ」
「いや、そっちが」
二人とも相手へ譲ろうとして、同じ側へよけた。
また向き合った。
リコが今度は逆へ動くと、ナギもそちらへ動きかけて止まった。
「……船の中より難しいね」
リコが言うと、ナギは椅子の背をつかんだまま笑った。
エダが壁際からもう一脚運んできた。
「よかった。うちには二人とも座れる場所があるよ」
リコはそれを受け取り、机の角を挟んでナギの隣へ置いた。エダは台所に近い自分の椅子へ腰を下ろす。飛行帽の椅子は、奥に残った。
温めたパンの皮に、包丁が入る。かり、と短い音がした。
丸パンは二つとも切り分けられ、大皿に載せられた。三枚の取皿と、焼いた豆の鉢。小さな壺からは、刻んだ香草の香りがした。
「硬いところも大丈夫?」
「はい」
「じゃあ、まずはそのまま」
リコは端の一切れを取った。皮をかむと、乾いた音のあとに中の柔らかいところがつぶれた。小麦の甘さがある。続けて食べた豆は、表面だけが少し香ばしかった。
顔を上げると、エダがこちらを見ていた。
「おいしいです」
思っていたより大きな声だった。
「そうでしょう」
エダも端の一切れを取り、満足そうに食べた。ナギは豆を一口食べてから、もう一度鉢を見た。
「同じ豆でも、焼くと違いますね」
「煮たのを最後に焼くんだよ。食堂の頃は、大きな鍋でね」
「僕なら、鍋でできたところで食べてしまいそうです」
「今日は待てたじゃないか」
ナギが手元の皿を見て、少し笑った。
エダは香草の壺をリコの方へ寄せた。かけるとどう変わるのか知りたくて、リコはパンを小さくちぎり、豆を一つ載せた。
「うちの母も、共同かまどでパンを焼くんです」
「どこの島?」
「コトリ島です」
エダが知らないようなら、いつもの取次ぎ先の名から説明しようとした。
「どんなパンを焼くの」
尋ねられたのは、そちらだった。
「もっと平たくて。端が薄いから、そこだけ先に焦げるんです。でも私は、そこが好きで」
言いながら、自分の持っている端の一切れを見た。エダも同じところを見て笑った。
「じゃあ、今日はいいところへ来たね」
リコは、はい、と答えてからパンを口へ運んだ。次の一切れを選んでいると、エダが大皿を回して、残った端をこちらへ向けた。
ナギの肘の向こうに、飛行帽が見えた。
誰の帽子なのだろう。
この人は、いつも誰と朝ごはんを食べているのだろう。
「コトリ島のは、焼く前に油を塗るのかい」
リコはエダへ向き直った。
「母は、少しだけ。何も塗らない家もあります」
「なるほど。それで端が……」
エダが指先で平たい丸を作った。リコも両手で大きさを示す。質問しかけたことは、そのままにした。
豆の焼き方なら、もう少し聞いていたかった。
*
壁の時計を見て、リコは残りのお茶を飲んだ。
「ごちそうさまでした。そろそろ、港へ戻ります」
「もうそんな時間かい」
エダも時計を見上げた。少し口を閉じ、それから皿を重ね始める。
「よく食べてくれて、嬉しかったよ」
リコは自分の皿を運んだ。ナギが三人分の杯を持ってくる。台所で水を流すと、窓から入る風がエダの前掛けの裾を揺らした。
「お皿、ここでいいですか」
「ありがとう。後は私がやるから、籠を忘れないようにね」
敷き布を畳んで小籠へ戻す。エダの手元には、二つの丸パンが入っていた紙袋が残った。彼女は中のパン屑を小皿へ払い、袋を折り畳んだ。
「パン屋さんに、おいしかったとお伝えします」
「うん。三人で食べたって、言っておくれ」
扉のところで、エダがリコの名を呼んだ。
「次に来る頃は、そこの鉢に花が咲くよ」
玄関脇の鉢には、まだ小さなつぼみしかなかった。
リコは一つを見てから、エダを見た。
「楽しみにしています」
もう一度頭を下げて門を出る。扉が閉まる前に、椅子を引く音が聞こえた。
帰りの坂で、ナギが歩調を緩めた。
「ほら」
家々の屋根の先、隣の島の畑に、黄色い花の帯が見えた。白い雲がその下を横へ流れている。
「行きは、全然気づかなかった」
「上り坂だったからね」
リコは笑って、空になった籠を持ち替えた。
リコは振り返った。青い井戸の屋根が、家並みの間に少しだけ見えた。エダの窓はもう見えない。籠の布に付いたパン屑を一つつまんで口へ入れると、豆の焼き方を忘れないうちに書いておこうと思った。
ナギは急がせず、一緒に花の帯を見ていた。
港へ戻った二人は、船と帰りの天候を確かめた。荷の減った船に籠を固定し、予定の便でミナト輪へ向かった。
*
帰りも一時間ほどかかった。
郵便局の扉を開けると、朝とは違う位置に荷車があり、同じ消印の音がしていた。ピッパが顔を上げた。
「おかえりなさい」
「ただいま戻りました」
リコは籠と敷き布を返し、控えを出した。港の受取所の署名と、エダの署名。取り違えも、渡し残しもない。
配達済みの欄を埋める時、鉛筆を少し強く握った。
マレが机の向こうからのぞいた。
「最初の便、どうだった?」
ちゃんとできました、と答えるつもりだった。
「パンを、三人で食べました」
言ってから、リコは顔を上げた。
「配達を終えて、帰りの時間も確かめて。それで、朝ごはんに誘っていただいて」
「そう」
マレは控えを受け取り、エダの名前を見た。
「いい朝になったのね」
リコは隣のナギを見た。彼もうなずいた。
ピッパが翌日の仕事の紙を持ってきた。午前は梱包の実習。器を送るための箱を扱うらしい。リコは使った鉛筆を削り直し、その紙を受け取った。
今日の配達表は、もう返してよかった。
鞄を棚へ戻した時、不意に焼いた豆の匂いを思い出した。
明日もここへ来るのが、少し楽しみになっていた。
遅くなりました。書き溜めていたストーリーや文章を全体的に見直しました。今後は続けて投稿します。




