1. 自分の名前で届ける朝
リコ:手紙の向こうに人を見る郵便士
19歳、女性。コトリ島育ち。成人向けの職業課程を経てミナト輪郵便局へ配属された新米。栗色の肩にかかる髪で、毛先が軽く外へはねる。橙色の短い肩掛け、使い込んだ青い鞄。明るく表情豊かで、常に笑顔でいる。
コトリ島、と書くと、宛先の最後の一字だけが枠から出た。
リコは鉛筆を止めた。肩にかかる栗色の髪を片手で払い、橙色の短い肩掛けを直す。
実家の住所を書く欄には、経由する港と受取所の名が先に収まっている。そこまで書かなければ、手紙は母のところへ行き着かない。肝心の故郷の名は、いつも端に追いやられた。
コトリ島への郵便は、別の島でまとめて受け取り、住民の舟で運ぶ。取次ぎの人は親切だった。それでも母へ便りを出すたび、よその島の名から書き始めることに、リコはまだ慣れきれずにいた。
町も畑も、深い雲海の上に浮かぶ島々にある。離れた島へ渡るには、空を飛ぶ船――飛行艇に乗る。母に会いに帰るにも、まず船の都合を確かめなければならない。
いつか、自分の島の名前で届くようにしたい。
そのために郵便の仕事を選んだ、と採用面接では答えた。
島々へ手紙や小包を運び、宛名に書かれた相手へ渡す。それが、今日からリコの就く郵便士の仕事だった。港から家まで鞄を担ぐこともあれば、その島の配達を担う受取所へ袋ごと引き渡すこともある。訓練では何度も練習した。これから預かるのは、誰かが本当に返事を待っている手紙だ。
知らない町へ行きたい。自分で稼いだお金で、知らない店の料理を食べてみたい。
そこまでは、言わなかった。
島から島へ渡る方法は少なく、郵便士は憧れの職業だ。
「字を小さくしなくても大丈夫よ」
向かいの局長が、紙の上へ視線を落とした。緑のベストに丸眼鏡。名前はマレ。面接の時より袖を短く折っている。
「余白に続けて。読めるように書いてもらう方が助かるわ」
消そうとしていた手を止め、リコは枠の外へ「島」の字を書き終えた。マレは紙を受け取ると、その字を確かめてからほかの書類と重ねた。
「では、仕事場へ行きましょうか」
十九歳の初出勤は、それだけの言葉で始まった。
*
ミナト輪郵便局の朝には、いくつもの音があった。
消印を押す乾いた音。荷車の車輪。窓口で名前を呼ぶ声。リコは教室で使った静かな仕分け台を思い出しながら、通路の端へ寄った。途端に後ろから空袋を抱えた職員が来て、また半歩戻る。
「そこなら通れます。動かなくて大丈夫」
すもも色のベストを着た女性が、荷車を押して通り過ぎた。黒い顎丈の髪が揺れ、丸眼鏡の奥の目がこちらを向く。
「仕分け係のピッパです。リコさんですね。鞄はこちらへ」
棚には一つ、空いた場所があった。リコが使い込んだ青い鞄を置くと、ピッパはその隣に配達表を載せた。
「今朝はこちらの便をお願いします。郵便袋一つと、別扱いの包みが一つ」
言い終わらないうちに、窓口から男が手を上げた。
「その包み、これだよ」
紙袋を差し出した手に、白い粉が残っていた。受け取ると、指先にほんのり熱が伝わってくる。焼けた小麦の匂いが、紙と糊の匂いの間へ入ってきた。
「丸パンを二つ。コムギ棚の近くのエダさんに」
リコは荷札の名前と番地を声に出して確かめた。男がうなずく。包みの隅には、いつも故郷で見るのと同じ、星形の分類印がある切手が貼られていた。
「この店のがいいって言うんだ。向こうにもパン屋はあるんだけどね」
困ったように言うわりに、男は嬉しそうだった。
「ずっと頼まれているんですか」
「食堂をやってた頃からだよ。店は閉めたけど、パンの注文だけは変わらない」
知っている味が欲しくなることなら、リコにも分かった。昨夜は夕食をすませた後で、母が共同かまどで焼くパンを思い出していた。
配達表を見る。行先の港、その横に一時間という数字があった。ここでは手紙だけではなく、物品の配送も行う。
「一時間ほどで、お届けします」
口にした途端、仕事を一つ任せてもらえたような気がした。
「そんなに早く着くのかい」
男の眉が上がった。その顔を見てリコもうなずこうとした時、背後から声がした。
「一時間は、港までだよ」
青黒い髪の青年が、地図を挟んだ板を手に立っていた。藍色の作業着の袖を折り、襟元には薄黄色のスカーフを巻いている。
「受取所に袋を渡して、それから家まで歩く。家までの時間は、そっち」
指が表の下へ移る。
リコは紙を押さえた。到着の欄の下に、受取所、エダ宅、と続いている。訓練で同じ表を読んだ時には、見落とさなかったのに。やってしまった。
店主は待っていた。
頬が熱い。言い直すなら、今だった。
「すみません。船が着くまでの時間と、間違えました」
一度息を吸い、配達表の続きを読んだ。
「お届けは午前中の予定です。港の受取所を回ってから、エダさんのお宅へ伺います」
「ああ、いつもの便でいいよ」
男は包みをこちらへ寄せた。
「冷めても大丈夫。温め方の札も入れてあるから」
取り上げられるかもしれないと思っていた包みが、手元に残った。
「うちのパンは、温め直してもうまいんだ」
「……はい。伝えます」
男が帰っていくと、リコは包みの温かい底を両手で支え直した。
ピッパが脇へ椅子を引いた。
「今のうちに、家までの道も書いておきましょう」
青年が地図を広げる。港から坂道を上がり、分かれ道を右へ。
「港から家まで、どのくらい?」
「歩いて二十分くらい。最後の角に、青い屋根の井戸がある」
リコは青い屋根と書き添えた。井戸のある角を曲がり、家の前で止まるところまで、指で地図をたどった。
「今日の相棒は、もう見つかったわね」
戻ってきたマレが、青年を紹介した。
「航路修理士のナギ。船と運航を主に見てもらいます。リコさんは荷物と受渡し。今日から二人で、ツバメ号をお願いします」
「リコです。さっきは、ありがとう」
「ナギです。こちらこそ」
彼は一瞬迷ってから、地図の端をこちらへ向け直した。
「この坂、帰りは見晴らしがいいよ」
まだ失敗の話が続くと思っていたリコは、顔を上げた。
「どこが見えるの?」
「隣の島の畑。今は花が咲いてる」
リコは地図へ目を戻した。小さな黒い線でしかなかった坂道を、自分が歩くところを思い浮かべた。
*
出発前の計量で、リコは少し背筋を伸ばした。
相手も自分とそう年が違わないらしいと分かってから、ナギが帳面へ何か書き込むたびに気になる。秤の針が止まったところで降りかけると、呼び止められた。
「鞄も」
「あ、うん」
ピッパが差し出す青い鞄を受け取り、もう一度載る。
「軽く見せようとしたわけじゃないから」
「鞄を置いていくのかと思った」
真顔だったので、リコは一拍遅れて笑った。ナギの口元も少し緩んだ。
水と食料、工具、今日運ぶ荷物。重さを合わせている間に、リコはパン用の小籠を借りた。郵便袋の底へ重い小包と一緒に入れる気にはなれなかった。包みの幅に合わせて敷き布を折り、角がつぶれないように収める。
ピッパが籠の持ち手を確かめた。
「それなら、歩く時も持ちやすいですね」
今度は直さずに済んだ。
リコはつい籠を見直し、持ち手を握った。
荷の照合を終えると、マレが出航の書類を持ってきた。担当者の欄には、先にナギの名が書かれている。その隣がリコの場所だった。
書いてから、自分の名前が少し見慣れなくなった。練習の紙でも、答案でもない。今日この便を運ぶ人の名前だ。
「戻ったら、記録を持ってきてね」
マレが控えを二人へ渡した。
「はい」
初めてであることを、もう一度言っておきたくなった。代わりにリコは、控えを鞄の平たい所へしまった。
局の奥の通路を抜ける時、壁際の古いポストが目に入った。口の下に、根のように枝分かれした模様がある。磨かれた縁だけが明るかった。
前を歩くナギが、港側の扉を開ける。
風がリコの肩掛けを持ち上げた。
建物の向こうには、空があった。
足元より低いところを、薄い雲が流れている。その先に畑を載せた島が浮かび、底から伸びた木の根をゆっくり揺らしていた。別の島には赤い屋根が並び、間の空を、帆を張った船が横切っていく。
生まれた時から見ている景色でも、桟橋へ出ると息を吸い直したくなる。
リコは手すりの内側を歩いた。下には落下防止の網が張られている。網越しの遠い雲を見ると、昨日までうまく想像できなかった今日が、急にはっきりした形を持った。
「あれがツバメ号」
白い船体に青い腹。橙色の帆を畳んだ小さな船が、綱につながれて揺れていた。丸い窓の縁に塗り直した跡がある。
「私たちの?」
「局の船。今日から、僕たちの担当」
リコは名前の書かれた船体を見た。
訓練で乗った船より小さい。渡し板が靴の下でわずかにたわむ。今日の配達表は鞄の中にあった。いつもなら最後に船へ乗ってくる教官を、今日は待たなくていい。
*
船内では、ナギと向き合って立つだけで通路が狭くなった。
彼が郵便袋を持ってよけ、リコが籠を運ぶ。席の後ろへ荷物を収める間、彼の袖に残った油の染みが見えた。朝、自分が肩掛けを何度も直していた頃には、もう船を見ていたのかもしれない。
「ここ、頼める?」
ナギが荷を留める帯を渡した。リコは籠ごと動かないように固定し、彼の見ている前で引いて確かめた。
「動かない」
「うん」
ナギは別の留め具へ手を伸ばした。リコも自分の荷札へ目を戻す。何か手伝うことはないかと、立ったまま待っていなくてよかった。
前の席では、計器の針が静かに揺れていた。船を浮かせる力は、淡く光る繊維を巻いた部品に蓄えられている。風実――かざみ。港で時間をかけて力をため、飛ぶほどに使っていく。残量計の見方は、訓練した船と同じだった。
航路図には、往路と帰路が別々に書かれていた。リコは残量計へ目を上げた。
「帰りの分も、見ていい?」
「ここ。向かい風になった時の分も残す」
ナギが計算の控えを間に置いた。二人分の水と、帰り道。その先に、今朝入ってきた郵便局の扉がある。
確かめ終えたリコは、鞄を収めて席の帯を締めた。
ナギが港の職員へ合図を返す。渡し板が引かれ、綱が一本ずつ外されていく。足元の振動が少し強くなった。
窓の向こうにマレがいた。脇には、次の便の荷車を止めたピッパもいる。
リコは手を上げた。マレが振り返す。
店主も、ピッパも、今日の荷を取り上げなかった。隣にはナギが座っている。
まだ何も届けていない。
それでも、朝の窓口に立った時ほど、一人ではなかった。
ツバメ号が桟橋を離れた。
局の屋根が下がり、その向こうに、通りからは見えなかった島々が現れた。洗濯物を干している庭がある。細い煙を上げる煙突がある。白い帆の船とすれ違うと、ナギが短く手を上げた。
あの島では、何を焼いているのだろう。
あの船は、誰のところへ行くのだろう。
リコは配達表を膝に広げた。エダ、という名前。その脇に自分で書いた、青い屋根の井戸。
まずは、この人のところまで。
後ろの小籠から、まだかすかにパンの匂いがしていた。
物語は完結まで記述していますが、第1話を投稿した後にミスに気づいて修正したり・・・を繰り返しているので(アップする前に気づけよ)、なかなか次の話しの投稿に進まず・・・




