12. 風待ち亭の空いている席
サラ:風待ち宿の女主人と元航海士
32歳、女性。ミナト輪の宿《風待ち亭》の主人。黒髪をゆるくまとめ、深緑のブラウスに長い巻きスカート、真鍮の耳飾りを着ける。しなやかな身のこなしと、くつろいだ大人の雰囲気がある。
配属から三週目に入っても、町からの返事はまだ来なかった。
リコは朝の仕分けで、差出地を一つずつ確かめた。自分宛てではない封筒ばかりなのに、あの町へつながる受取所の名を見ると、手を止めそうになる。
そのたび、宛名を読んで、行くべき籠へ入れた。
仕分けの終わった指に、封筒の糊が薄くついていた。布で拭い、今日の配達袋を持ち上げる。
昼前、通常配達の最後に訪ねたのは、港から坂を少し上がった宿、風待ち亭だった。
入口の横に、座面の広い椅子が置かれていた。誰も座っていないが、荷物も積まれていない。軒下まで来ると、戸の内側から煮込みの匂いがした。
「配達です」
奥から現れた女性は、濡れた手を拭き終えてから、リコに向き直った。
深緑のブラウスに長い巻きスカート。ゆるくまとめた黒髪の横で、真鍮の耳飾りが揺れた。急いで来た様子はないのに、待たされた感じもしなかった。
「ありがとう。宿宛て?」
「はい。風待ち亭、サラさんで、お間違いないですか」
「私です」
リコは小包と、封をした手紙を一通渡した。宿の主人であるサラは宛名と包みの状態を確かめ、受取の印を書いた。手紙は開けずに、受付の内側へ収めた。
「あなたが新しい郵便士さんね」
「リコです。これから、よろしくお願いします」
「こちらこそ。船から上がってきた人は、手紙を待つと顔が立派になるから。リラックスして」
少し低い声で笑った。
リコは今朝の自分を思い出し、受取帳をしまう手を一瞬止めた。
*
戸口から振り向くと、ナギが坂を上ってきた。
片手に、通気の隙間がある蓋付きの籠を提げている。中で橙色の耳が動いた。ツバメ号で世話をしている風綿獣のポルだ。両手に乗るほどの白い体を敷布へ沈め、墨色の足を籠の縁へ掛けていた。
朝、ツバメ号の帆を外して点検するため、ポルは自分の敷布ごと籠へ移されていた。寝床の周りを掃除する間もそこに置き、ナギが世話をする。二人は仕事が予定どおり終われば、この坂で落ち合って昼食を取ることにしていた。
「船は?」
「係留も点検も終わった。籠の方は、途中からずっと外を見てる」
ポルの鼻が隙間へ寄った。
リコがサラへ、風綿獣を連れていることを伝えた。食べ物と離して籠を置ける所で、二人分の昼食を取れるかと尋ねる。
「奥の食卓には入れず、こちらの窓際なら。お客が通る方は空けてね」
サラは入口に近い小さな卓を示した。食器棚や鍋のある場所とは離れていた。
配達の終わった鞄を閉じ、籠と反対側の壁際へ掛ける。ナギはポルの籠を卓から離れた窓下に置き、敷布と水入れを確かめた。手を洗って戻ると、椅子が二脚、引いてあった。
昼食は豆と根菜の煮込みに、厚く切ったパンだった。
リコは財布から自分の分の十リンを出し、皿が来る前に勘定を済ませた。最近は茶葉を買う時も、昼を外で食べる時も、あと何回それができるかを考える。今日の一食は、その計算をしても食べたかった。
「風を待っている人、多いんですか」
壁の運航表を見て、リコが尋ねた。
到着予定の横に、書き直した時刻と「再案内待ち」の札がある。奥の窓辺の別の卓では、外套を着たままの客が茶を飲んでいた。椅子の脚に袋を寄せ、湯気の向こうの港を見ている。
「今日は北側からの便が一つ。ここにあるのは、港で誰でも見られる案内よ。私が写しているだけ」
「見せてもらってもいいですか。調査の連絡を、今、待っていて」
「どうぞ。写した時刻も一緒にね。港の方が新しくなっているかもしれない」
サラは鉛筆を置いた。
リコは航路の名に目を通した。物売りに連絡書を預けた先へ、別の道がないだろうか。この宿なら、図の町を知っている人が泊まっているかもしれない。そんな考えが、窓辺の客へ目を向けさせた。
客は自分の封筒を取り出しかけ、二人の視線に気づくと、外套の内側へ戻した。
リコは運航表へ顔を戻した。サラも何も聞かなかった。ただ、卓に置いてあった空の皿を下げ、茶の差し湯が要るかと尋ねた。
「そのあたりへ行く船のことなら、港の掲示と、出入りする事業者の窓口で確かめられるわ」
戻ってきたサラは、運航表の下を指した。業務窓口の受付時刻が、小さく書き添えてある。
「お客さんがどこへ行くか、何を待っているかは、こちらからは話せないけれど」
「はい。これを写します」
リコは示された連絡先を控えた。横でサラが卓の上を拭くと、酢の匂いがわずかにした。
客はまた封筒を出していた。リコは自分の紙を畳み、来た皿を両手で受け取った。
*
煮込みは、豆が形を残して崩れるところまで炊かれていた。リコは一口食べ、家で食べたものとの違いを探した。母のは香草が先に匂った。こちらは、飲み込んだあとに少し酸味が残る。
「これ、何が入っているんですか」
「仕上げに酢を少し。気に入った?」
「はい。急に、パンがもう一口ほしくなります」
「それは成功ね」
サラは椅子に片肘を預け、二人が最初の数口を食べる間、話を足さなかった。リコはパンをちぎった。皿の底へ浸すと、端から温かくなった。
ナギが窓の外を見た。
「港では、帆があまり動いてなかったんですけど」
「上の薄い雲は、まだ速いでしょう」
サラの指を追うと、屋根の向こうで白い筋が流れていた。低い雲とは違う向きだった。
「ここで静かでも、船がいる高さは違うもの。私も船にいた頃、食堂の窓から港を見て、帰ってくるのが遅いと腹を立てたことがあるわ」
「船に?」
「貨物船の航海士。今は鍋の前。こっちも、ときどき予定を変えられる」
奥から蓋の鳴る音がした。サラは立ち上がり、火を弱めに行った。
濡れた蓋を持ち上げ、鍋の中をかき混ぜる。戻ってくる時、窓の上へもう一度目をやった。リコには見えない高さの何かを、まだ追っているようだった。
ナギが、折り畳んだ控えを卓へ置いた。
「帰りの候補も、少し増やしておきたい。町から戻る途中で風が変わった時に――」
紙を開きかけ、皿の置き場所を狭くしたことに気づく。リコは自分の皿を動かさず、彼のパンを指した。
「先に食べよう。それ、冷めると、汁を吸う前に割れちゃう」
ナギは紙を閉じた。
「まだ温かいよ」
「だから、今」
二人で同時にパンを皿へ浸した。先に引き上げたリコの一切れが、端だけ汁へ残った。
ナギが匙を寄せたが、リコは自分ですくい上げた。
「私のが先だった」
「温度以外の問題もあるね」
低い笑い声が、戻ってきたサラからこぼれた。
*
食べ終えた頃、籠の中でベルのような声がした。
ナギが窓下へ行き、ポルの水入れを確かめた。サラは空の食器を片づけてから、籠のそばにしゃがんだ。
「近くで見ても平気?」
「急につかまなければ。開けると、出てくるかもしれません」
「今なら、こちらにほかのお客はいないわ」
ナギが蓋を開けると、白い丸い体が縁へ乗った。
サラが敷布の端を籠へ戻そうとした時だった。ポルは低く跳ねて、しゃがんだ彼女の肩へ前足を掛けた。サラは落とさないよう片手を添えたが、橙色の耳が首の横をくすぐった。
「ひゃっ」
声が、さっきまでとまるで違う高さになった。
リコが目を丸くすると、サラは姿勢を保ったまま言った。
「今のは、戸の音」
戸は閉まっていた。
ナギが一度だけ戸を見て、何も言わずポルを受け取った。リコは笑いをこらえようとして、かえって息が細くなった。
「よく手入れされた戸ですね」
ようやく言うと、サラ自身も笑った。
ポルは籠へ戻されると、何事もなかったように敷布を丸めた。ナギの整えた四角い端が、一つずつ中へ消えていった。
サラは手を洗いに立った。戻ると、今度は二人と同じように椅子へ腰を下ろした。
卓に新しい茶碗が一つある。自分のために入れた茶だった。
「昼は、いつもこれからですか」
「もう少し早い日もあるし、遅い日も。今日は鍋に余裕があるから、今」
サラは湯気に顔を寄せた。
一口飲むと、片方の靴を床で少し緩めた。リコも椅子の背へ体を預ける。サラが茶碗を戻すと、小さく受皿が鳴った。
*
窓辺の客が立つと、サラは声だけで階段の位置を教えた。客は茶の代金を置き、袋を持って上がっていった。
「案内が変わったら、部屋まで知らせるんですか」
階段を上がる足音が遠ざかったあと、リコは聞いた。
サラは受付の控えに短く印をつけた。
「船は、眠っても来るからね。案内が変わったら、知らせることもできる」
空いていた椅子には、今、小さな旅行鞄を抱えた別の人が座っていた。サラはその人に、部屋が整うまでそこで待ってもらっていたらしい。
座った人の濡れた裾が、椅子の脚のそばに小さな水の輪を作った。荷物を積んでおくには、もったいない椅子だった。
リコはナギの閉じた控えを見た。
「泊めてもらえるかは聞いたけど、遅れて待つ時のことも要るね。船の場所だけじゃなくて」
「うん。風実に力を戻せても、操縦する人が休めなければ続けて飛べない」
ナギはそう答えてから、紙へ手を伸ばした。今度は、帰ってから書くことを端に一行だけ記した。
「現地のことは、現地の人に聞いてね」
サラが言った。
「私に分かるのはこの宿と、昔乗った船のこと。泊まれると言ってもらえたら、何を持って行けば相手が困らないかも、聞くといいわ」
リコは食料の確認を紙の端に加えた。サラが茶碗を持ち直したので、しばらくペンをしまっていた。
「サラさんは、また船に乗りたいですか」
仕事の質問が終わったあとで、リコは尋ねた。
「乗りたいわ。次は、どこかの店でゆっくり朝ごはんを食べたい。出港の支度をしないで」
サラは笑い、茶を一口飲んだ。
「それなら、お休みの日に行けそうですけど」
「近くならね。遠くへ行くと、帰る日も要るでしょう。一泊でも留守にするなら、朝の仕入れから誰かに頼まなくちゃね」
リコは返事に困った。誰かに任せれば、という言葉は、目の前の茶をもう一杯注ぐほどには簡単でなかった。
サラは受付の案内を自分の方へ寄せた。
「この港の朝市、見てみたいの。朝ごはんを三回くらい食べそうで」
案内に描かれた遠い港を、サラが指した。
「三回?」
「一回目を見てから決めると、二回目のお店が見つかるもの」
リコには心当たりがあった。ナギを見ると、彼も、買物をした日のことを思い出したような顔でこちらを見た。
「行き先を選ぶのは、まだ先。でも、見ている時は楽しいもの」
受付の端には、旅客便の案内が一枚、裏返さずに置かれていた。
*
帰りの坂で、ポルの籠は静かだった。
ナギと船へ戻って寝床を整え、局へ帰れば、また今日の仕事がある。町からの返事は、今日の午後にも来ないかもしれない。
「あの煮込み、もう一度食べたい」
リコが言うと、ナギは籠を持ち替えた。
「酢を入れる方?」
「あそこで食べる方」
港には、まだ帆を畳んだ船が並んでいた。
サラの言った高い雲は、二人が食事をしている間にも流れていた。リコは少し立ち止まり、どちらへ動くかを見た。それから、風待ち亭の窓を振り返った。
卓の上の茶碗は、まだ片づけられていなかった。
前置きで久々の人物紹介




