5. 並ぶ前から埋まっている
窓口の前には、まだ誰も並んでいなかった。
リコはそれがよいことのように思えて、階段を二段まとめて上がりかけた。背中の鞄が手すりに触れ、一段ずつに戻す。模擬区間でセナに先着した時の足が、用もないところで勝手に速くなる。大会の申込控えは鞄の平たい仕切りに入っていた。出して眺めるためではなく、予約の受付に要るから持っている。
ナギが遅れて扉を押さえた。彼の手には、練習で使う風実の量を書いた紙がある。船を浮かせ、進めるための蓄力部品は、使った分だけ港の棚へ戻して時間をかけて満たさなければならない。二人は局の通常枠に、何回の練習を足せるか調べに来たのだった。
「来週の、帰着便のあとから取れますか」
窓口の設備担当は、鉛筆を立てたまま予約帳を開いた。灰色の袖口の太い糸が一か所ほつれている。横の棚に山積みの接続具を見て、リコはこの人が、受付だけしているわけではないと思った。
担当は人差し指を数行走らせ、頁をめくった。次の頁も、すぐめくった。
「こちらで合っていますか。追加充填です」
「はい。朝いちばんでなくても大丈夫です」
「朝もですが、その時間は、もう」
帳面をこちらへ回す代わりに、公開用の予約表を卓へ引き寄せてくれた。細長い枠の中を、一つの会社名がいくつも占めている。環路運送。午前の通常便が戻ったあと、昼の交替の前、夕便に十分間に合う午後の始め。リコが指を置こうとする所は、先に埋まっていた。
人の列より、鉛筆の方が早く着いていた。
窓の外には、風車と光を受ける棚が並んでいた。船から外した風実を接続具へ留め、浮糸に蓄えられた力をゆっくり戻す設備だ。空いている板へ置くだけでは充填できない。使える接続具と、満ちるまで預けておける時間を、同じ枠で確保する必要があった。
「大会の枠は?」
「そちらは別です。お二人の基本枠も確保されています」
担当は、別紙のツバメ号の行を示した。出場に必要な充填と安全検査は、全参加艇に割り当てられる。空欄を探しているのは、その前の練習を増やすための民間枠だった。リコは自分たちの船名へ一度指を置いてから、また大きな表へ戻った。
「ここなら、空いている」
「明け方です。その日だけは」
ナギの鉛筆が、リコの指の横へ来た。
「通常便の積込みと重なる。受取りの担当も、替わってもらうことになる」
もう一つの空きは、夕方の遅い時間だった。そこから充填を待って練習を始めれば、帰着後の仕事が夜へはみ出す。リコは料金だけでなく、棚へ預ける時刻と受け出せる時刻を聞いた。安い数字の隣に長い待ち時間を書いていくうち、余白の方が狭くなった。
*
「その日なら、まだご相談に乗れますよ」
声が入口からした。
短く整えた灰茶の髪、深い青緑の上着。環路運送で便と設備の割付を担うヴェルが、革の予約帳を脇へ挟んで立っていた。冬の保管契約でも会った相手だ。リコの目は、顔より先に帳面へ行った。
「この予約、全部が御社の便なんですか」
「通常便と、その変更に備えた分です。大会があっても、普段の荷が消えるわけではありませんから」
ヴェルは設備担当に、一便の帰着が遅くなると伝えた。代わりに先に受け入れられる船の名を言い、必要な接続具の規格を確かめる。担当は短くうなずいて、札を一枚動かした。話している間にも仕事が進む。その手際は、リコが腹を立てたからといって鈍くならなかった。
入口で待っていた環路運送の船員が、ほっとした声を出した。
「それなら交替の者が間に合います」
「急がせないで。積込みは今の割付のままでよい」
船員が去ると、ヴェルはリコの紙を見た。
「お困りなのは、二度目の練習ですね」
「二度目だけとは、まだ決めてません」
「それなら、ばらばらに一枠ずつ買うより、一括の手配に入っていただく方がよい。こちらの予約の中で、充填と運搬をまとめて組めます」
差し出された薄い案内には、受取り、充填、荷の集約までが一本の線で描かれていた。見た目には、いま抱えている面倒が全部なくなる。
リコはすぐ返さず、裏を見た。最低の利用期間がある。大会前の一度だけでは終わらない。
「練習が済んだあとも、通常便の手配を一緒にするんですね」
「毎回その場で人を探さずに済みます。御局にも利点はありますよ」
「取次ぎの場所も、ここに集める条件ですか」
「その方が費用を下げられます」
コトリ島の人が荷を取りに行く坂道を、リコは思い出した。図の中には坂がない。線の終わりの丸へ荷が着くと、運ぶ仕事は終わっている。
ただ、それをいま話せば、前と同じ答えが返ってくるだろう。リコは図の上から手を離した。
「予約が先に埋まるのは、分かります。でも、空いていないからこの契約しかないと言われると」
「ほかの時間も残っています」
「その時間で動く人を替える費用は、ここに入っていません」
ヴェルは怒らなかった。帳面の縁を親指で押しただけだった。
「それも含めて、どちらが御局に向いているかお決めください。こちらは、使いやすい時間を先に買っている。その負担を引き受けていることも、お忘れなく」
余分に取った時間を返せばいい、と言いたかった。しかしどの便に何が要るか、リコはまだ知らない。知っているのは、あの名前の列が、自分たちに何を選ばせようとしているかだった。
ナギが案内の料金欄を示した。
「個別枠の変更料も、写して帰っていいですか」
「もちろん」
許可があまりに滑らかで、リコは余計に口を閉じた。
ヴェルは、一括契約なら翌朝までこの案を置いておけると言った。今すぐ決めろとは迫らない。決めるための一晩まで、きれいな枠にして渡された。
リコが案内をしまっていると、設備担当が小さな札を取り出した。
「変更待ちにも入れます。予約の解除が出た時だけですが」
「空いた棚を見つけたら、声をかければいいんですか」
「棚が空でも、次の船が遅れて来ることがあります。こちらで解除を確かめてから、待っている順にご連絡します」
リコは窓の外の充填棚を見た。接続具のない面が一つ、日の当たる場所に残っていた。いま風実を預けられそうに見えても、誰かの予定がそこへ向かっている。
担当は、連絡を受けられる時間も書くように言った。リコは局の窓口と自分たちの通常便の時刻を記し、すぐには戻れない時間に線を引いた。取りたいと思う気持ちだけでは、列の先にいても間に合わない。
「変更の知らせが来たら、どれくらい待ってもらえますか」
ナギが尋ね、担当が回答期限を付け足す。そのやり取りの間、ヴェルは革の帳面を閉じずにいた。予約が空く可能性まで数えたうえで、あの一晩を申し出ているのだろう。リコは案内の表紙を見ずに鞄へ収め、変更待ちの控えは外側へ残した。
*
外へ出ると、港の風は窓口より冷たかった。
リコは階段を下りながら案内を二つ折りにし、折り目が料金の数字へかかったことに気づいて開き直した。ナギは何も言わず、紙の端を押さえてくれた。
「あんなに早く動かせるんだね」
「さっきの交替?」
「うん。そこは、すごいと思った。思いたくなかったけど」
白と青のツバメ号の先で、環路運送の荷役台が動いている。積み重ねた箱の列が、一つの掛け声で短くなった。あちらの船員が休めるのはよかった。そのために自分たちの夕方がなくなることまで、よかったとは言えない。
「うちの夕便を別の船に移せば、一回できるかな」
リコは紙をのぞき込んだ。ナギがその案をすぐ消さなかったので、顔を上げる。
「確認するのはいいと思う。ただ、夕便の荷も、その船に載るか見る。引き受ける人の勤務も」
「一行で移らないか」
「一行で書くことはできる」
リコは笑いかけ、息だけこぼした。埠頭の端の屋台で揚げた豆を売っていたが、買う気になれなかった。腹はすいている。怒るにも腹がすくことに、少し腹が立った。
ナギが二人分を注文した。リコの分を払うのではなく、別々の小皿にしてもらい、自分の皿だけ受け取る。リコも財布を出した。温かい皿を持つと、案内をいったん鞄へしまうしかなかった。
「一括の方が、ほんとうに安かったら?」
「比べる。それでも、受取先まで変える条件は別に決める」
「私だけで嫌って言う話じゃないんだよね」
「リコが嫌だと言ったことは、局長に伝えていい」
リコは豆を一つ噛んだ。かり、と小さく割れた。
「そこは伝える」
*
マレの机に紙を並べると、一括の案内が一番薄かった。
リコたちの持ち帰った方には、預ける時間、受け出す時間、変更料、通常便との重なりが何枚にも分かれている。丸眼鏡の向こうで局長の目が行を追った。
「比べる手間のかかる方を、ちゃんと持ってきましたね」
褒められた、と受け取るには、リコはまだ窓口に半分残っていた。ヴェルの声が、紙をめくるたびに戻ってくる。
マレは一括案の期間を確認し、すでに約束してある便の行へ緑の定規を当てた。
「この契約に入るために、今の受取先との約束は変えません。今回は追加枠だけで考えましょう。ただし、希望した回数を全部は取れないかもしれない」
「夕便の担当を、替えてもらえれば」
「替わる相手には、何を返せますか」
リコは口をつぐみ、勤務表を引き寄せた。空欄は休みだった。文字がないから使える時間とは限らない。それでも、翌週の朝の仕分けを二人で受け持てば交換できそうな箇所が一つある。
マレはその相手に確認する印を置き、まだ決定の線は引かなかった。
ナギは、飛行を伴う練習を一回減らした案も出した。リコは紙を見たくなくて、先に窓の外を見た。あの短い模擬で勝てた自分たちは、どこまで行けるだろう。いま減らした一回が、本番で惜しかった一秒になるかもしれない。
「これも、案として置いておく。まだ、こっちに決めてないから」
ナギはうなずいた。
マレは夕便の出発を確かめて席を立った。リコたちのための相談も、ほかの仕事が始まれば区切りになる。二人は机を空け、候補の紙だけ残した。
廊下でリコが鞄を開けると、申込控えの端が見えた。出場者欄の二人の名前は、さっきまでより少し遠く感じた。
その下へ、空いている追加枠を写した紙を差し込む。捨てる候補も、まだ選ぶ候補もある。リコは留め具を閉じる前に、一番遅い時刻へ小さく丸を付けた。
その丸を、ナギは見ていた。




