4. 同じ箱、違う持ち方
今朝の見本には、花が付いていなかった。
同じ箱が六つ。三つずつ、台車のそばに並び、持ち手の内側へ指を入れられるよう、少し間が空いている。昨日の帽子は庭の隅の台へ退けられていた。リコはついそちらを見てから、目の前の箱へ手を掛けた。
「重りが入っています」
声を聞き、持ち上げる前に手を止めた。
黒い短い髪を耳へ掛けたピッパが、秤のそばで札を揃えていた。丸眼鏡とすもも色のベストは、局で仕分けをしている時と同じだ。今日の練習では受渡しと計時を受け持つ。薄い紙の束の上に、小さな時計を置いている。
「一箱二十キロ。三箱で六十キロ、二組とも同じです。運ぶ前に、二人で持ち方を決めてください。帽子のつもりで持つと、肩がびっくりします」
「ちゃんと一回、びっくりしかけた」
リコは手を離した。
ナギと箱の両側へ回り、息を合わせて台車へ載せる。帯の内側へ入れた手に、昨日とは違う重さが落ちてきた。台車の上へ置き終えるまで、肩を上げたままにしない。横でセナの組も、同じ動きを一度試していた。
港の倉庫で使っていない前庭を借り、片側を縄で分けてある。一般の荷役は別の道へ回る。短い模擬区間は庭と二つの受渡し口を結び、船は使わない。飛ぶ速さを外して、渡す仕事だけを比べる日だった。
ピッパは柱へ図を留めた。
「実際の店名ではありません。今日の見本札の宛先です。まず読む時間を取ります」
東荷受け所。
東荷揃え所。
二枚の札を見て、リコは顔を上げた。
「ピッパ、これ」
「違う場所です」
「そうじゃなくて、わざとでしょ」
「区別が付く目印も書きました。意地悪のために目印を取ってはいません」
細い鉛筆の先が、図の屋根を叩いた。一方には換気の小屋根があり、もう一方の窓の上には三角の庇がある。札にも、小さな図が付いていた。
リコは実際の窓を見た。先に目へ入るのは近い方の小屋根で、その下へ直線を引けば早い。でも、最初の箱に付いたのは庇の印だった。
「あっち。近い方じゃない」
ナギが彼女の示した口を見た。
「文字を読む前に分かる?」
「違う。読んだから、どれを探すか分かる」
リコは自分で言って、少し嬉しくなった。初めての配達では、見覚えがあるつもりの看板へ走りかけた。今は目印が見えると、それが自分の探している目印か、一つ前に確かめられる。
見本の札を受け取り、二人は出発台へ戻った。
ナギは箱を運ぶ順に一列へ並べかけ、二つ目で手を止めた。救急の袋を引く紐が隠れてしまう。普段ツバメ号で使う物を、練習の船内に見立てた台にも置いてあった。
「そこは空けよう」
「今日は出番がないと思うけど」
「今日だけ引ける形を変えると、船で戻した時に迷う」
リコが袋を外へ置く案をやめ、箱の間を少し詰めた。台車は一度に三箱を運べるが、受渡し口ごとに出す箱は違う。最初に使う持ち手を手前へ向けると、次の箱を押さえている帯へ指が入りにくくなった。
ナギは何も言わずに自分で直し始めたが、リコが手を差し込むと、それを見て待った。
「私の手だと、ここで引っかかる」
「僕は奥から入れたから」
「窓につく時、私はこっち側だよ」
箱を一つ、半回転させた。
昨日の帽子の持ち帯を、思い出しながら作業する必要はなかった。相手が持つ場所を見てから、自分の手を決める。その順番の方が、もう楽だった。
準備を終えたセナが、出発台を見に来た。
「その向き、最初から?」
「今、変えた」
ナギが答えると、灰色の帽子の補助担当も、箱の裏側を確かめた。自分たちの台へ戻り、一か所だけ帯を掛け直している。
リコは横目で見た。教えなければ、相手はそこで遅れたかもしれない。そう思ってしまった自分に、少し照れた。
「見せた分、セナも何か教えて」
「何がいい?」
「速くなること」
「広いわね」
セナはリコの鞄を指した。
「受渡し札は、どの手で出す?」
「右」
「右手で箱を持っている間に、左で出せる?」
試すと、いつもの留め具を開ける動きが途中で止まった。鞄そのものを変える必要はない。今日使う三枚を、別の薄い差し込みへ入れ、左手でも角が触れるようにする。
「ここなら」
「落とさないことも確かめてね」
リコは鞄を肩から掛け直し、少し歩いた。札は出てこない。左手で取ると、いちばん上の一枚だけが出た。
「ありがとう」
「こちらこそ」
セナはもう自分の位置へ戻りかけていた。リコは、その背中へ何も付け足さなかった。
最初はリコたちの番だった。
合図と一緒にナギが台車を動かす。車輪が石畳の継ぎ目を越え、庭の端の白線を横切った。リコは前を見た。三角の庇。脇には、仕事で使う荷車が動かないよう止めてある。その隣を抜ける道が、図に示された受渡し口へつながっていた。
「庇の口へ。向こうで左を持つ」
「分かった」
返事は一つだった。二人が同時に説明し、どちらを聞いてもらうか困ることはない。
台車を止め、箱へ手を入れる。受取側の台の高さに合わせ、二人で持ち上げた。昨日の帽子より、目の前はよく見えた。その代わり、置くまでに腕へ重さが来る。リコは最後の一息を急がず、台へ落とさないよう下ろした。
「一つ目、こちらで合っていますか」
受取役のボンゴが札を見て、箱の番号と合わせた。
「合ってる。受け取ったよ」
正しい窓へ着けば、すぐ終わりではない。相手の指が番号をなぞり、控えへ印を押すのを待つ。その間にナギが次の箱の帯へ手を掛け、リコは受け取った札を、済んだものを入れる側へしまった。
二つ目では、小屋根の下へ回る。足が行き先を覚えているうちに、リコはもう札を見ていた。
最後の空台車を出発位置へ戻した時、頬が熱かった。
走ってはいない。それでも、普段は別々にやっている動きを、一つの長い息で繋いだようだった。ナギは台車から手を離す前に留め具を掛け、リコは最後の控えをピッパへ渡す。
時計が止まった。
「六分十四秒。受渡し、三つとも一致」
リコは数字を聞いても、それが速いのか分からなかった。ただ、三つとも、という後の言葉が気持ちよかった。
「一つ目、止める場所よかったね」
ナギが言った。
「荷車の車輪が出てたから」
「あそこで寄せ直さずに済んだ」
リコは息を整えながらうなずいた。褒められるために荷車を避けたわけではなかった。そのことが、かえって嬉しかった。
箱を元へ戻してから、セナたちが始めた。
近い窓へ惑わされる様子はなかった。曲がる前に庇を見て、台車を寄せる。札も早い。受取台から控えを取り上げる時には、もう次の持ち手へ目を向けている。
リコは自分の鞄の差し込みを握った。
最後の箱を取る時、補助担当の手袋の縫い目が帯の下へ入りにくくなった。セナが一度、箱を押さえ直す。動きは滑らかで、慌ててもいなかった。ただ、先ほど自分たちはしなかった持ち替えが一つあった。
出発台へ戻る。時計が止まる。
「六分十八秒。受渡し、三つとも一致」
リコはピッパの口元を見た。
六分。そのあとは。
「今、十八?」
「十八です」
「私たちは?」
「十四秒」
数字を書いた紙がこちらへ向いた。上と下に並んだ二つの記録を、リコは声に出さず読んだ。
「勝った」
思ったより小さな声になった。
セナが、補助担当と何か短く話したあと、こちらを見た。
「ええ。四秒」
リコはナギの袖を掴みかけ、油の付いていないところを探す間も惜しくて、そのまま掴んだ。
「勝ったよ」
「聞いた」
「セナに」
「聞いてる」
ナギも笑っていた。数字を見ているうちに、彼の頬まで赤くなっていく。リコは掴んだ袖を少し揺らした。どちらか一人の四秒ではなかった。
ボンゴが、帽子を持ち上げた。
「勝者へ贈るのは」
「持って帰れません」
リコとナギが同時に言ったので、セナがとうとう声を上げて笑った。
昼の片づけで、セナは最後の箱を持つ帯を試し直した。
リコも台車を戻しながら手伝った。補助担当の手袋に合う位置へ帯をずらすと、今度は一度で指が入った。四秒は、明日にはもう、同じ場所にないのかもしれない。
「本番では、同じところで止まらないから」
セナが言った。
「こっちも、もう少し早くなる」
「楽しみにしてる」
リコはその返事を気に入った。運がよかったとも、練習だからとも言われなかった。一度取った四秒を、今日いっぱい、ちゃんと喜んでいられた。
午後、局長室へ申込書を持っていった。
マレは通常便の割付と、出場者に用意される基本の充填枠を確かめ、船の使用に了承の印を付けた。参加の準備と費用は、局が出せる範囲で組む。次の配達を休みに変えたり、誰かの空いた夜を練習に使ったりする予定は入っていない。
「ここまでなら、申し込めます。追加で飛ぶ練習は、空き枠を調べてから相談ね」
リコは返ってきた紙を受け取った。
「マレさん。今日、四秒勝ちました」
「誰に?」
「セナに」
「あら」
丸眼鏡の奥が細くなった。マレはそれ以上、いつもの確認を付け足さなかった。
ナギが小さく頭を下げ、リコは申込書の折り目を伸ばした。二人で港の受付まで歩くと、朝から付けたままだった時計の札が裏返される直前だった。
受け付けた係が名前を読み、控えを切り離した。
「リコさん、ナギさん。ミナト輪郵便局、ツバメ号」
初めて、三つを一緒に呼ばれた。
帰り道、リコは控えを鞄へしまわず、風に取られないよう両手で持っていた。隣から、ナギもその紙をのぞく。少し歩きにくいほど近くなっても、どちらも離れなかった。




