6. 勝つために削らないもの
丸を付けた時刻の隣に、リコは小さな文字を足した。
充填を待つ間に夕食。終わってから一度だけ飛ぶ。戻ったら片づけ。机の上では、どれも短い言葉だった。ナギが二枚目の紙を横に置くと、片づけの下から翌朝の通常便が始まってしまった。
「帰ってから、これもある」
飛行後の点検と、翌朝の荷に合わせた積み直し。自分の書いた行より、ナギの字の方が間隔は狭いのに、ずっと長い。
「一回だけ。毎晩じゃなくて」
「一回のあとに来る朝も、同じ時刻だよ」
リコは、二度目の言い返しを飲み込んだ。今日の朝便がもうじき始まる。ここで揉めて遅れるのは、あまりに格好がつかなかった。
丸を消さずに紙を伏せ、青い鞄を持つ。ナギも点検票を折った。結論が出なかったことまで顔へ残して、二人はツバメ号に乗った。
*
その朝は、ミナト輪の内側の荷受け場をつなぐ通常の仕事だった。競技の札は載せず、注文を受けた包みを載せる。港の区画を回る短い運航でも、荷を渡す人は次の作業を決めて待っている。
最初の客は修繕場の職人で、片袖を肘までまくり、受け取る台へ古い釘を落とさないよう片づけていた。届いたのは、戸車の部品の箱だった。
「間に合った。午後から外すつもりだったんです」
リコは受領の印を確かめた。ここなら荷下ろしを早められた、と頭の隅で測ってしまう。職人が箱を回そうとすると、底に付いた梱包の留めが作業台の縁に引っかかった。
「そちらを先に持ってもいいですか」
相手の返事を待って向きを変え、空いた面から台へ滑らせる。職人は蓋へ手を置き、リコの鞄から顔へ目を移した。
「大会、出るんだって?」
「はい。まだ準備中です」
「うちの戸も競技にしてくれれば、今日中に直るのに」
奥から、今日中に直すと言ったのはそっちだろう、と別の声がした。職人が苦笑し、リコも笑った。早く終えることには、賞金の付かない場所にも、ちゃんと欲しい理由があった。
次の受取先では、相手が手を洗って出てくるのを待った。入口の時計を見そうになり、リコは荷札へ目を戻した。時刻を見てもよかったのだが、いま測ろうとしていたのは仕事の遅れではなかった。練習に回せる数分を探していた。
「待たせました」
「こちらへ置きますね」
リコは普段どおりに言った。待った時間を、客の包みへ貼り付けるわけにはいかない。
船へ戻るとナギが次の出発条件を確かめていた。顔を見合わせたが、二人とも机の紙の話はしなかった。いま仕事をしているうちに、あちらの問題が片づいてくれればよいのにとリコは思った。
最後の受領を終え、空いた固定帯を巻いた。今日運ぶと約束した分は、ちゃんと届いた。胸の真ん中が軽くなると、そのすぐ脇に、まだ練習できていない場所が残った。
*
昼のあと、二人は整備室の脇の台へ戻った。
ナギは自分の勤務票まで持ってきた。リコがあの時刻の丸を表に出すと、彼はその下へ、点検のあとに予定していた作業を書き足した。
「待って。これ、私が帰ってから?」
「そう」
「私の夜は駄目で、ナギの夜は空いてるの?」
ナギは鉛筆を止めた。留め具の予備を組み直す。それから箱受けの擦れを見直す。競技のための改善が、点検という見出しの下へ紛れ込んでいる。
「飛ぶ前の点検が要るのは分かる。そこは、私も待つ。でも、この箱の台は明日の通常便で使えるんだよね」
「今の形でも、使える」
「じゃあ、それは練習の方に書いて」
ナギは返事をしなかった。紙を近くへ寄せたので、押し返されたかと思ったが、見出しを引き直すためだった。改善の行が二人の練習の横に来ると、日程はますます入らなくなった。
「これをやれば、持ち替えが一つ減ると思った」
「やりたい?」
「やりたい」
そこで初めて、リコは彼の顔を見た。青黒い髪が額へかかっている。自分が無理を言い、ナギが止めるだけの相談なら、嫌な顔で座っていればよかった。彼も勝つつもりで、夜へ仕事を押し込んでいた。
「私も飛びたい。前の一回、偶然じゃなかったって、もう一回確かめたい」
「偶然だけじゃないよ」
「うん。でも、確かめたい」
午前の配達で使った手袋を、リコは裏返した。指の縫い目に細かな糸くずが付いている。黙ってそれを取り、何も進んでいない時間を少し耐えた。
ナギが先に、今夜の飛行へ線を引いた。その線を見て、リコは自分が何かを奪われたような顔をしているだろうと思った。
「僕の組み直しも、今日はここまでにする」
改善の後半にも線が引かれた。二本とも、同じ濃さだった。
*
ピッパは三枚の予定表を持って入ってきて、台の上の紙を見ると、二枚を脇へよけた。
黒い顎丈の髪の下で丸眼鏡が光る。仕分け係としての彼女は、便の組替えを預かっていた。さっきまで自分たちが口論していたと説明しなくても、白紙になった夜の欄は見えている。
「夕便の交換は一度ならできます。引き受ける方の希望は、翌週の朝の仕分け。二人とも確認してください」
承諾を得た日が示された。リコは名前を確かめてうなずいた。追加の飛行練習は、その一度。今日の夜はもう空けない。
ピッパが持ってきた一枚には、空箱を梱包台へ運び、練習場へ移し、船へ戻す道が描かれていた。矢印がぐるりと回り、元の所へ帰る。
「この運ぶ時間も、練習ですか」
ナギに聞かれ、ピッパは紙を少し遠くへ離した。
「用具を同じ場所へ返すための移動です」
「戻す場所を、今日だけここに借りられたら?」
リコが整備室脇の空いた台を示す。作業用の通路を塞がない、指定の保管面だった。ピッパは管理の札を確かめ、その矢印へ長く線を引いた。
「消してしまっていいんですか」
「書いたのは私です。消す権限もあります」
顔はいつもどおりだったが、最後の矢印まで消す手は思い切りがよかった。三枚あった予定表は一枚になり、リコは少しだけ、今日ここへ座ってよかったと思った。
全部を通して飛ぶ代わりに、引っかかった持ち替えだけ試すことになった。計時役のピッパは、午後の仕分けへ戻るまでしかいられない。リコは最初から最後まで見てもらう頼みをやめ、二人だけでは見えない背中側の動きを頼んだ。
ピッパは空いた時間へ別の課題を書こうとして、筆を止めた。
「空くと、入れたくなりますね」
「いま、私も思った」
リコが答えると、彼女は横へ置いた二枚の予定表を裏返した。ナギも改善案の後半を畳んだ。空いた時間はまだ狭く、少し押せば何でも入りそうだった。誰もすぐには席を立たなかった。
窓の下で荷役用の車輪が鳴り、ピッパは午後に来る荷の数を口の中で確かめた。リコは聞き取れる二つの数字だけでも、ここへ来るために相手が仕事を区切っていたと分かった。
「今から始めよう。見てほしいの、最初の二回」
自分で台から紙をよけると、ようやく練習する場所ができた。ナギが空箱を運び、ピッパが時計を持って立つ。リコは二人を待たせず、持ち手の前へ入った。
*
地面に置いた空箱は、何度運んでも風を受けない。
一回目、リコは早く手を離したくなった。ナギの指は届いていたが、重さを受ける位置にはまだ来ていない。彼女はそのまま支え、相手の肘が曲がってから離した。
遅い、と思ったのは体だった。紙の上で納得したことが、腕へは届くのに時間がかかる。
「いま、箱を渡す前に、私までそっちへ行ってた?」
「半歩、出ています」
ピッパが答えた。リコは足元を見て、もう一度立った。模擬受取口に見立てた枠を通す時、ナギが次の固定帯を避ける。その動きまで速くしようとすると、二人の手が同じ角に集まる。
「先に向きを言ってくれる?」
「短い辺から」
「それなら、ここへ手が出せる」
二回目は足が止まったまま、箱だけが移った。空箱の底が受け台に当たり、ぽんと軽い音を立てる。リコはその音を好きになった。三回目も同じ音がしたので、思わずナギの顔を見た。彼は次の計測用の紙を、もう差し出しかけていた。
「いまの、もう一度」
「私もそう言うつもりだった」
二人で笑ったあと、ピッパが時計を見た。
「私はここまで。残りは、さっき決めた時刻で終えてください」
彼女がいなくなると、観客のいない舞台みたいに台の周りが広くなった。それでも手順は消えなかった。ナギが受ける側、リコが渡す側。役を替えて、見え方も試す。自分がすぐ離してほしかった時と、もう少し持っていてほしかった時の差が、腕に残った。
最後は十分快調だった。だから片づけの鐘が鳴った時、リコは聞こえなかったふりをしたくなった。ナギが箱を持ったまま止まる。
「明日の一回で、受ける高さを変えてみたい」
次の飛行までに、地上で確かめられることがまだある。ナギは明日の仕事が始まる前の、短い確認を指していた。
「低い方?」
「うん。膝より少し上だと、僕の手はここに来る」
空中へ示された手を見ていると、リコももう一度箱を持ちたくなった。二人ともそれに気づき、手を下ろした。リコが先に笑い、箱の底を台へ戻す。続きがちゃんと欲しいところで、今日は終わった。
*
道具を収める頃にも、港にはまだ日が当たっていた。
ほかの組の帆が上がっていく。追加の枠を取れた組かもしれないし、通常便かもしれない。確かめるものもないのに、リコの目は船を追った。
「あれを見ると、もったいないと思う」
「僕も」
ナギは鍵を預け、受領を確かめた。戻ってきた手に工具がないのが、少し新鮮だった。
帰り道、午前に部品を届けた修繕場の前を通ると、戸が開いていた。職人が試しに引き、重い板が静かに動く。道へ出てきた相棒が、もう一度、と言った。職人は面倒そうにしながら、もう一度引いた。
リコは手を上げた。向こうが部品箱を指し、それから滑らかになった戸を指す。声を張らなくても、届いたあとのことが少し見えた。
角を曲がるまで、ナギも一緒に見ていた。
宿舎へ着いたら、リコはまず靴を脱ぎたかった。明日の配達も、次の練習もある。その前に、まだ明るい部屋で足を投げ出せる。
「夕食、今日はゆっくり食べる」
「先に風呂?」
「ご飯。ゆっくりするために、早く食べ始める」
ナギは少し考えてから、いい順番だ、と言った。




