2. セナは勝つつもりです
セナの同社補助担当。淡い灰色の作業帽をかぶり、艇内で箱の固定を確かめる。
白い艇が港へ入ってきた時、リコはまだ階段の半分にいた。
赤い帆が絞られる。艇の腹が桟橋の端と並ぶまでに、港の係はもう繋ぐ場所を空けていた。急な音も、大きな揺れもない。階段を下り切った時には、艇の横から人が降りてきた。
「おはよう。遅かった?」
セナはそう言って、長い編み髪を背中へ払った。銀茶の髪には細い赤紐が編み込まれ、白と赤の飛行服の袖口はきちんと留めてある。速達社で働く彼女と港で会う時は、いつも、こちらが見つけた頃には仕事が半分終わっている。
「私が遅かった。船、まだ外の灯りのところだと思ってた」
「そこから、階段を使えば間に合うと思った?」
リコがうなずくと、セナは少し首を傾けた。
「私の船を待ってから下りたら、私は先に着くわよ」
言われてみれば、その通りだった。
乗り込むたびに顔を合わせる港の係へ、セナは署名を返した。艇の中では、淡い灰色の作業帽をかぶった同社の補助担当が、箱の固定を確かめている。二人の間に長い相談はなく、帽子の人が手を上げると、セナも指を上げた。
窓口の脇に、大会の臨時受付ができていた。
セナが持っていたのは、折り目のない申込書と、練習の予定だった。時刻の横に、短い矢印が幾つも並んでいる。リコの案内には二人の名前しか書いていない。見せようと思って持ってきた紙を、鞄の中で一度だけ撫でた。
「もう、そんなに決めたんだ」
「勤務を変える相談は早い方がいいもの。私だけ空けば済むわけじゃないし」
「こっちは、船を見てもらってる。局の予定も。楽しみだね。港もにぎやかになるし」
「ええ」
セナは次の窓口へ出す紙を分けた。
「私は、勝つつもり」
屈託のない声だった。
リコは、私だって、とすぐ返せなかった。勝ちたい、なら、昨日から何度も思っている。それを相手の顔を見て言うのは、案内の隅へ名前を書くのとは違った。ここでうなずく人も、同じ場所を取りに行く。
「私も、上位に入りたい」
「三組あるものね」
「セナは何位?」
「一位」
受付の係が吹き出した。セナは笑わずに書類を渡し、係が笑いを収めるのを待った。その横顔を見ていると、リコは自分まで笑って済ませるのが惜しくなった。
「私も一位を狙っていい?」
言ってしまってから、変な聞き方だと思った。
「私の許可で決めるの?」
「違う。狙う」
「じゃあ、そういうことで」
セナは、そこで初めて笑った。
書類の確認を待つあいだ、二人は桟橋の外側へ歩いた。売店には、昼の客へ出す丸いパンが籠に並び始めている。リコが見たのに気づき、セナは係から預かった番号札を裏返した。
「次の呼出しまでなら、買えるわ」
「時間が分かるの?」
「今、前にいる組が、船の図を広げた。あれを畳むまでは呼ばれない。私たちの番が早まったら、あなたが先に戻って」
「半分食べてても?」
「持っていけばいいでしょう」
二人で一つずつ買った。リコのは煮た果物が入っていて、セナのは塩と薄いチーズだった。セナが代金を渡す手を見て、リコは賞金のことを思い出した。
「賞金、何に使う?」
「まだもらってないわよ」
「考えるのは、ただだから」
「それはそうね」
セナは籠の脇に置かれた買物袋を避け、通路の端へ寄った。
「休みを一日増やしたい。それから家に持っていく。けど、今度は賞金だけじゃないの。成績を見て、定期の速達を頼んでくれる客がいる」
「ずっと忙しくなる?」
「いつ忙しいかが、少し分かるようになる」
パンをちぎる手が止まった。
「家の商売も、急に誰かを呼ぶより、来月の何日に手が要るか分かる方がいい。私が帰れる日も決めやすい。大きな注文が一回あるのも嬉しいけど、次が読める方が、支度はしやすいでしょう」
リコは、母の手紙に書いてあった舟の日を思った。いつ誰に声を掛けるかが決まる。それは、ただ帳面がきれいになることではなかった。
「だから、速いって知ってもらいたいんだ」
「ええ。毎回ほとんど同じ時間に着く、というのも売りにしたい」
「ほとんど?」
「風は私を雇ってないから」
セナが平然と言ったので、リコはパンを飲み込む前に笑ってしまった。
背後で、低いくしゃみのような声がした。
小さな犬が、通路の真ん中に座っていた。
郵便の小袋を胸に付け、耳だけを持ち上げている。同じ島の建物の間を係員と往復する配達犬だった。今は付き添いの姿が見えない。短い引き綱が、脇の係員用の柵に留めてあった。
セナは足を止めた。
犬も、顔を上げた。
その間へ、リコがパンの包みを持ったまま来た。犬の視線が包みへ移る。
「あげないよ。何を食べていいか、聞いてないから」
リコが言うと、セナが自分の包みも閉じた。犬はしばらく二人を見比べ、諦めたように顎を引いた。しかし立つつもりはないらしい。
「通れないね」
「裏を回れば通れる。ただ、あっちは荷役中」
セナは係員の詰所へ声を掛けた。中から、いま受領を取っている、すぐ戻る、という返事があった。
リコは犬の隣にしゃがみ、手は出さずに顔を見た。犬は仕事の袋を下へ付けないよう、妙に姿勢よく座っている。
「あんたも、順番待ち?」
「この道では一位ね」
セナが言った。
「譲ってもらうの?」
「係の人が来たら」
それから彼女は、片手で持てる板を鞄から出し、未提出の札をその上へ並べ始めた。紙の角が一つずつ揃っていく。犬を睨むことも、何度も詰所を見ることもしなかった。
リコは立ち上がった。
「その時間割に、犬って書いてある?」
「ないわ」
「困らない?」
「今ここで困った顔をしても、あの人の受領は早く済まないもの」
セナは一枚をリコへ向けた。大会の見本荷の寸法が描いてある。
「練習、いつやる?」
それは、通り道を開けてもらった後の話ではなかった。リコは差し出された板を受け取り、二人から見える高さで支えた。
犬は足元に座ったまま、二人はその上で、どの箱をどこで受け渡すか話し始めた。セナは三つの箱を指し、港で貸す台車の幅を確かめた。リコはボンゴの実演場なら、建物の入口も使えると答えた。
「梱包の人でしょう。前に自分まで包んでいた」
「ちゃんとした職人だよ」
「知ってる。ちゃんと包まれていたから」
リコは言い返す途中で笑い、セナの板を落としそうになった。
詰所から係員が戻ってきた。犬は顔を見るなり立ち上がり、二人より先に通路を進もうとした。係員が綱を短く持ち直すと、耳を少し伏せ、横へ付く。
「待っていてくれて、ありがとう」
「どういたしまして」
リコから板を受け取り、セナは揃えた札を一度で鞄にしまった。番号を呼ぶ声がしたのは、その時だった。
夕方、ナギはリコの話を聞いて、実演場の見取り図を広げた。
整備台の上に、午前とは別の紙が増えている。ツバメ号の通常点検は予定どおり進められ、二人の大会参加については、マレが局の勤務を確認してくれるところだった。
「セナさんと練習するんだ」
「明後日。相棒の人も来る。荷を運ぶところまで、二人ずつで同じように」
「競争する相手に見せていいのかな」
「私たちも見せてもらうんだよ」
ナギは図を見てから、受渡し口の脇へ小さな印を足した。
「それなら、受取側に立つところも見たい。船の中からだと分からない」
リコは頬杖をついて、彼が線を引くのを見た。
港で会うセナは、いつも、もう次の用事に向かっている人だった。その背中を羨ましく思ったことはある。けれど、犬の前で止まっていた今日の方が、遠くにいる人のように感じた。立ち止まったままでも、こちらより先へ行ける。
「勝てると思う?」
ナギの鉛筆が止まった。
「今のままなら、分からない」
「今のままでも、少しは考えて」
「分からないから、見たいんだよ。どれぐらい違うのか」
リコは自分の手を見た。犬を眺めていたあいだ、セナは札を揃えていた。自分は何もしなかった、という後悔ではない。犬に話しかける時間は楽しかった。ただ、それを選んでいる時にも相手は準備を進められる。競うとなれば、その差は消えない。
「セナ、一位を取るって」
「リコは?」
「同じこと、言ってきた」
ナギは少し驚いた顔をし、それから口元を緩めた。
「それは、練習を見てもらわないと」
「笑われたら?」
「たぶん、ボンゴさんが先に笑わせる」
窓から赤い帆が見えた。セナの艇が、夕方の便へ出るところだった。灰色の帽子が船内へ入り、白い服が操船の位置へ回る。灯りの合図を待ってから、艇は桟橋を離れた。
リコは鉛筆を借り、自分たちの練習日の横へ、小さく星を付けた。
「何の印?」
「初戦」
「明後日は、練習だよ」
「知ってる。でも私には、初戦」
帆が窓の枠を横切り、屋根の向こうへ消えた。リコは最後まで見送ってから、ナギの図を自分の方へ引いた。




