1. いちばん早い返事がほしい
母の手紙には、この春いちばんに咲いた花のことが、一行だけ書いてあった。
その下は、取次ぎの倉庫へ払った金額だった。二月分、三月分。住民の舟を出した日は、金額の脇に小さな丸が付いている。途中に、かまどの煙突を直したという知らせが挟まり、また数字へ戻る。最後に、花は今年もよく咲いた、とあった。
リコは最初の一行をもう一度読んだ。返事を書く時、煙突より先に、花のことを聞こうと思った。
開け放した局の窓から風が入り、肩に掛かった栗色の髪を持ち上げた。冬の間は厚い外套の下へ隠していた橙の肩掛けが、今日は少し暑い。机の脚に掛けた青い鞄から、朝の配達で押された受取印の控えがのぞいていた。
ミナト輪郵便局へ勤め始めた頃、この時間にはまだ鞄の底を探していた。届けた場所の名前は覚えていても、その証拠になる一枚がなかなか出てこなかったのだ。今朝は先に控えを日付順に留めてある。午後の便の袋を仕分けの台へ渡し、ようやく自分の手紙を開けたところだった。
その手紙の下から、大きな青い字がのぞいた。
風の郵便レース。
冬に港で見た案内より紙が厚くなり、出発の日付も入っていた。初夏の四日間。小型郵便艇部門、二人一組。三つの区間を飛び、決められた受取場所へ荷を渡す。絵には、帆をいっぱいに張った艇が描かれている。帆の下に小さく刷られた文字を、リコはもう何度も読んでいた。
上位三組に賞金、および試験航路案の優先発表枠。
試験航路は、新しい定期便をいきなり始めるのではなく、期間や運ぶ量を限って、安全と受渡しを確かめるための便だ。その案を、審査する人たちへ先に説明できる。発表枠を取ればコトリ島の住所も認められる、という賞ではなかった。
賞状の絵より、その次の行がまぶしかった。入賞者の発表会は、大会の終わりから間を置かずに開かれる。そこへコトリ島の図を広げ、途中で誰かの住所を借りなくても荷を受け取れる案を話す。部屋の向こう側に座る人から、まだ順番ではありません、と言われずに。
リコは手紙を退け、案内を真っすぐに置いた。
「その紙、机に穴をあけるまで読むつもり?」
局長のマレが、丸眼鏡の上からこちらを見ていた。緑のベストに、午後の窓口の鍵を留めている。リコは読んでいた場所を指で隠しかけ、やめた。
「申し込みたいです」
「出たいのは、前にも聞いたわ」
「今は、入賞したいです」
マレは向かいの椅子へ腰を下ろした。自分の机には、返答を待つ書類がまだ積んである。リコは急いで、母の紙と大会の紙を並べた。
「ここに島の案を出せたら、夏の間に一度、話を聞いてもらえます。今なら当番の相談も進んでいるし、冬の費用も揃っています」
「通常の窓口へは?」
「出します。それも」
「それも、ではなく、もともと出す予定だった方ね」
指先が案内の裏へ回った。通常の相談先と受付日が、小さな字で載っている。冬に見た時と同じ宛先だった。
リコはうなずいた。母に送った前の便りにも、そこへ相談する、と書いた。大会へ出るために待たせてよい用事ではない。
「分かっています。大会で勝っても、便を始められるわけじゃないことも」
「うん」
「でも、早く返事が欲しいんです」
言ってから、母の筆跡を見た。
去年までは、倉庫に置いてもらえているのだから十分だと思う日もあった。コトリ島の名前を知らない窓口で、取次ぎ先の住所を言えば品が出てくる。慣れてしまえば、それが少し回り道だということも忘れられた。
今は母の丸印を見るたび、その日に舟を出した人のことを考える。朝の仕事を途中で止めたのか。雨が来る前に帰れたのか。次は誰に頼むのか。紙に足された金額だけでは、その日一日は分からない。
「早く、って言ってばかりで、また人を急かすのは嫌です。でも、順番を待つのが上手になりたいだけでもありません」
マレは眼鏡を外し、鼻の付け根を軽く押した。
「あなたがここへ来た頃は、持って帰る手紙の話をしていたわね」
「今もします」
「ええ。今は、こっちで返事を待つ顔もしている」
その言い方で、リコは少しだけ黙った。
窓口のベルが鳴った。マレは眼鏡を戻したが、立つ前に大会の日付を指した。
「船の整備日、局の勤務、相棒の都合。三つを合わせて持ってきて。賞のない帰り道も含めて、ここから出せるか考えましょう」
「負けた時の話は、今からしなくても」
「帰りの充填を、優勝してから買う予定にしていたら困るもの」
思わず顔を上げると、マレはもう笑っていた。
午後の便を送り出してから、リコは整備場へ向かった。
ツバメ号の丸い前窓に、春の雲が映っている。白い船体の底は青く、畳んだ橙の帆には、冬の補修の縫い目が一筋あった。見慣れた艇なのに、大会の紙を持って近づくと、帆が少し小さく見えた。案内の絵の艇は、実物よりずっと勇ましい。
ナギは船べりに肘を置き、金具の動きを確かめていた。藍の作業着の袖を上げ、薄黄色のスカーフを襟の内側へ入れている。青黒い髪に細い木くずが付いていた。航路の設備も船も直す相棒は、工具を持っている時には、呼ばれるまでなかなか顔を上げない。
「ナギ。大会の申し込み」
「そこ、今、油が付く」
差し出した紙の下へ、乾いた布が滑ってきた。リコは布を受け取り、二人の間に置く。
「出ようって、ちゃんと相談したい」
ナギは金具を元へ戻してから、案内を読んだ。途中で裏返し、また表へ戻す。リコは何も言わずに待ったが、彼の目が賞の欄を素通りして、船の条件へ向かったところで口を開いた。
「同じ大きさの部門だよ。速達の大きい艇とは分かれる」
「うん。二人組。最低限の整備と充填は別枠で……荷は見本か」
「本物の急ぎの手紙で競争するんじゃない」
「それはいいな」
ナギは自分の工程表を持ってきた。艇を下ろして見る日と、通常の配達に使う日が、小さな図と一緒に並んでいる。
「ここで帆の継ぎ目を見直す。大会に合わせて特別な部品を付ける予定はない。普通の整備が終われば、船は出せると思う」
「それで、ナギは?」
「僕?」
「船じゃなくて」
彼は案内から目を離した。
リコは鞄の肩紐を掛け直した。先に故郷の話を始めれば、ナギはきっと、それを助けるための予定を考える。いつもそうしてくれた。それだけで二人分の名前を書くのは、今日は違う気がした。
「私は入賞したい。コトリ島の案を早く話したいし、速い人たちの前で、ちゃんと届けてみたい。ナギ自身は、出たい?」
返事を急がずに済むよう、船体へ目を移した。補修した帆を見ていると、少し前にナギと二人で、これに雪を残さないよう手を動かしていたことを思い出した。
「ほかの組が、どこで時間を使っているか見たい」
ナギが言った。
「船の速さだけじゃ、かなり同じになると思う。荷を下ろす時に手が止まるとか、声を掛け直すとか。僕らにも、気づいていないところがある」
「調べるため?」
「調べたい。それから」
彼は少し考え、丸い窓を指で拭った。
「いつも乗ってる船で、いいところまで行けたら、嬉しい」
リコは、知らず詰めていた息を吐いた。
「私も。それ、すごく嬉しい」
二人とも同じ艇を見た。案内の絵より小さな帆は、さっきほど頼りなくなかった。
局へ戻る途中、窓口で古い仕分け堂の管理主任からの業務便を受け取った。冬の整理に立ち会った、平たい鍵入れを持つ人の署名がある。約束した四週間後の見直しは済み、照会を続ける品の担当と保管条件が更新されていた。祝いの衣装については、まだ専門の確認が続く。マレはその現状を、織町の仕立屋イリスへ知らせた控えも重ねた。
「こちらは次の定期報告を待ちます。二人の仕事を増やす便りではないわ」
リコは、棚に残った箱を思い浮かべた。自分が戻らないあいだにも、扉は開き、誰かが鍵を戻している。
受領の欄へ印を付け、その綴りをマレに渡した。机の上へ、冬の仕事と大会の準備を一緒に積まなくてもよかった。
帰りに宿舎の廊下で、ナギの部屋の扉が開いた。
床すれすれに白いものが動き、橙の耳がのぞいた。風綿獣のポルは、丸い毛の下から墨色の足を出し、ナギの靴を片方だけ押している。彼が受け取って持ち上げると、もう片方の靴の上へ座った。鈴を短く鳴らしたような声がした。
「留守の間は、また預かりを頼むことになるな」
「大会へ連れていくのは?」
「あの船に、荷と二人。いつもの場所も狭くなる」
リコがしゃがむと、ポルは彼女の指を嗅いだ。朝食の甘い匂いを探しているらしい。空の手を見せると、鼻先を引っ込めた。
「応援だけ頼もう。帰ってから、結果を聞いてもらう」
ナギが部屋へ乾いた布を敷き直すあいだ、リコは廊下の窓台に案内を広げた。日付、飛ぶ日、帰る日。その脇に余白がある。
「まだ申込書じゃないよ」
ナギが言った。
「知ってる」
リコは鉛筆を持ち直し、リコ、と書いた。その隣に少し広く場所を空け、彼へ渡す。
ナギは空いた場所に自分の名前を書いた。二人の筆跡は傾きも大きさも違った。紙の隅なのに、そこだけ、もう始まっていた。




