第8話 人間、家族を知る
入学式の前日の夜、ルカスは眠れなかった。
緊張しているわけではない。目を瞑ってもまた開けてしまうような感じ。頭の中が静かにならない感覚。
今日までのことを、ぼんやりと思い返してみる。
施設にいた自分をレグルスが引き取りに来た。屋敷に連れてこられて、ブレスレットを外してもらって、魔法が使えるようになって、試験に合格して——
(なんだか上手くいきすぎてる)
そう思った。
自分は人間族で、ずっと施設で浮いた存在だった。誰にも必要とされてこなかった。それなのに、なぜレグルスはわざわざ引き取りに来たのか。なぜこんなに良くしてくれるのか。
(そういえば、レグルスさんに一度も、ちゃんと聞いたことがなかったな)
ベッドから起き上がって、窓の外を見た。
夜の庭が、月明かりに照らされていた。
思わず静かに部屋を出て、庭に降りた。
夜風が涼しかった。魔素の粒が月光を受けて、いつもよりきらきらして見えた。
噴水のそばに立って、水面を眺めていると——後ろから足音がした。
振り返ると、レグルスが立っていた。
「……眠れないのか」
「はい。レグルスさんこそ」
「少し散歩をしたくなってな」
二人並んで、しばらく無言で噴水を眺めた。
虫の声が遠くに聞こえる。風が木々を揺らす音がする。
月明かりが、水面にゆらゆらと揺れていた。
(今しかないかもしれない)
「……レグルスさん」
「なんだ」
「一つ、聞いてもいいですか」
レグルスが静かにこちらを見た。
「どうして、僕を引き取ったんですか」
沈黙が落ちた。
「施設に置き去りにされた人間族の子どもなんて、普通は引き取らないじゃないですか。それに屋敷に来てからも——ご飯も、部屋も、学校も。どうして、こんなに良くしてくれるんですか」
(ずっと、不思議だった)
(でも怖くて聞けなかった)
(理由を聞いたら、何か壊れてしまう気がして)
(こんなに優しい人たちに拒絶されると思うと怖くて)
レグルスはしばらく月を見ていた。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「……お前に初めて会った時に……必要だったから、と言ったな。あれは事実だ」
少し間があった。
「……申し訳ないがそれ以上のことは、今は言えない」
その言葉には、何か重いものが含まれているように聞こえた。
「しかし——」
風が、二人の間を静かに通り過ぎた。
「俺はあの時、施設にいるお前を見て放っておけなかった」
その言葉が、じわりとルカスの胸に落ちた。
少し間があった。
「理由はそれだけか、と言われると——正直、自分でもよくわからない」
レグルスが、珍しく言葉を探すように続けた。
「俺は——お前を引き取ってから後悔したと思ったことは1度もない。いつも俺やパンテラに気を使っているのは感じていたが」
少し間があった。
「すまない、俺は言葉や表現が足りないとよくパンテラからも言われるのだが、これだけは言っておくぞ」
「……お前は、俺の家族だ」
十分だったのに。
気づいたら、視界がぼやけていた。
(泣くつもりじゃなかった)
でも、一粒流れたら——止まらなくなった。
「……すみません」
「なぜ謝る」
「泣く、つもりじゃ——」
声が、途中で詰まった。
しゃくりあげるわけでもない。ただ、涙が次から次へと流れてくる。
施設にいた十二年間、誰かにそんなことを言ってもらったことがなかった。
必要だと言われたことも。
放っておけないと思ってもらったことも。
家族だと言ってもらったことも。
(誰かの邪魔にならないように、息を潜めて生きてきた)
(でも——レグルスさんは)
レグルスは何も言わなかった。
ただ、大きな手がルカスの頭の上に乗って——そのまま、静かに引き寄せられた。
レグルスの胸に顔を埋める形になって、ルカスはしばらくそのまま泣き続けた。
泣き止もうとするたびに、また涙が出てきた。
レグルスは何も言わなかった。ただ、背中に回された手が、ゆっくりとさする様に動いた。
(こういうのを——家族って言うんだ)
(ずっと諦めていたものが、いつの間にか手に入っていたんだ)
夜の庭に、虫の声だけが響いていた。
涙が止まった頃、ルカスはそっと顔を上げた。
「……ありがとうございます」
「大丈夫か」
レグルスはいつも通りの顔をしていた。
翌朝、目が覚めると窓の外は明るかった。
昨夜あれだけ泣いたのに、不思議と頭がすっきりしていた。
まるで、長い間胸の中に溜まっていたものが、全部流れ出てしまったみたいに。
食堂に下りると、レグルスがすでに座っていた。
パンテラが朝食を並べながら、さりげなく言った。
「よく眠れましたか、ルカス様」
「……はい。ぐっすり眠れました」
レグルスはそれを見て短く言った。
「そうか」
それだけだった。
でも、その声が——昨夜より少しだけ、柔らかかった気がした。
朝食を終えて、制服に袖を通した。
玄関でレグルスとパンテラが待っていた。
「行ってきます」
言葉を口にする前に、ルカスは少し迷って——それからレグルスに向かって一歩踏み出した。
「……あの」
「どうした」
答えずに、腕を伸ばした。
レグルスの胴に、ぎゅっと抱きついた。
一瞬、レグルスが固まるのがわかった。
でも——すぐに、大きな手がルカスの背中に回った。
「……行ってきます」
「ああ」
低い声が、頭の上から降ってきた。
ルカスはそっと離れて、今度はパンテラに向き直った。
「パンテラさんも、いつもありがとうございます」
パンテラが、わずかに目を見開いた。
「ルカス様——」
「ありがとうございます」
もう一度言って、パンテラにも腕を伸ばした。
パンテラは一瞬だけ固まって——それから、戸惑いながらもルカスの背中に手を添えた。
「……こちらこそ」
いつもの淡々とした声が、少しだけ震えていた。
ルカスは二人から離れて、玄関の扉に手をかけた。
(行ってきます)
(こんな当たり前の言葉を、誰かに向けて言える日が来るとは思っていなかった)
二人の視線を背中に感じながら、学校への道を一歩踏み出した。




