第2話 人間、初めての食卓
馬車が止まった。
「着いたぞ」
レグルスの短い一言で、僕は窓の外を見た。
——広い。
門だけで、施設の建物より大きいんじゃないかと思った。白を基調とした石造りの屋敷が、夕暮れの空を背景にそびえ立っている。手入れの行き届いた庭には色とりどりの花が植えられていて、噴水まであった。
(これ、何人で住んでるの……?)
思わず内心で突っ込んだ。
馬車を降りると、すでに玄関前に人影があった。
黒い。
さっきレグルスを見た時と同じ感想が出てきた。漆黒の毛、黒い耳と尻尾。黒豹の獣人だろうか。年齢はレグルスより少し上に見える。背筋がピンと伸びていて、執事服がよく似合っていた。
「お帰りなさいませ、レグルス様」
深々と一礼してから、その黒豹の視線が僕に向いた。
一瞬、値踏みするような間があった。
「……こちらが、ルカス様で」
「パンテラ、案内を頼む」
「かしこまりました」
パンテラと呼ばれた執事は、もう一度丁寧に頭を下げてから僕に向き直った。
「ルカス様、ようこそいらっしゃいました。何かご不明な点があれば何なりと」
「あ、はい……よろしくお願いします」
(様、って言われた……)
施設では名前を呼ばれることも少なかったのに。
屋敷の中はさらに圧倒された。
高い天井、磨き上げられた大理石の床。壁には風景画が飾られていて、廊下の突き当たりには大きな窓がある。夕陽が差し込んで、床にオレンジ色の光の筋を作っていた。
「こちらがルカス様のお部屋でございます」
パンテラが扉を開けた瞬間、僕は入り口で固まった。
ベッドが大きい。施設の相部屋で使っていた簡易ベッドの三倍はある。窓際には小さなテーブルと椅子が置かれていて、本棚まであった。
「……あの、ここ、僕一人で使うんですか」
「はい」
「広すぎませんか」
「レグルス様のご指定です」
そう言って、パンテラは少しだけ——本当に少しだけ、口元を緩めた。
その時、レグルスが部屋に入ってきた。
「ルカス、腕を出せ」
「え?」
「ブレスレットだ」
言われて、左手首に視線を落とした。施設にいる子どもは全員つけている、くすんだ名前が彫られた銀色のブレスレット。魔法を封じるためのもので、引き取り手だけが外せる仕組みになっている。
施設にいた12年間、いや人生で外してもらえると思っていなかったもの。
レグルスは無言で僕の手首を取ると、ブレスレットに指を添えた。
「外す。いいか」
「……はい」
かちり、と小さな音がした。
その瞬間——
何かが、動いた。
身体の中を、温かい何かが流れていく。血液とは違う、もっと細かくて、もっと深いところを流れる感覚。
(これが、魔力……?)
施設の本で読んだことがあるので知識としては知っていたが、実際に魔力というものを感じるのは初めてだった。
そして——
『解析』
頭の中で、声がした。
自分の声でも、誰かの声でもない。ただ静かに、当たり前のように響いた。
目の前の景色が、一瞬だけ違って見えた。
「ルカス」
レグルスの声で、我に返った。
「気分は」
「……はい、大丈夫、です。たぶん」
(今のは、なんだ……?)
答えは出なかった。
「夕食にしよう」
レグルスはそれだけ言って、部屋を出た。
食堂に通されると、テーブルの上には見たことのない料理が並んでいた。湯気の立つスープ、柔らかそうなパン、肉と野菜を煮込んだ料理。施設では薄いスープと固いパンが当たり前だったから、これだけで目が丸くなってしまう。
「どうぞ」
パンテラに促されて席に着いた。
レグルスはすでに食べ始めている。僕もそっとスプーンを手に取った。
一口、スープを飲んだ。
(……あたたかい)
それだけで、なぜか目の奥が熱くなった。
慌てて俯いた。泣くのは違う。そう思いながら、もう一口飲んだ。
しばらく無言が続いた。
「……あの」
気づいたら、口を開いていた。
「あ、改めて、僕の名前、ルカスって言います。よろしくお願いします、レグルスさん」
レグルスは手を止めずに、短く答えた。
「ああ、知っている」
「……レグルスさんの事はなんとお呼びしたら?」
「レグルスでいい」
「あ、はい」
(短い……)
パンテラが背後から静かに口を挟んだ。
「レグルス様は多くを語らない方ですが、悪い方ではございませんので」
「パンテラ」
「はい、失礼いたしました」
全く反省していなそうな顔で、パンテラは深々と頭を下げた。
(この人たち、なんだか面白いな)
その日はいつ振りか分からないくらい久しぶりに、少しだけ笑えた気がした。




