第95話
俺は食堂の床に雑巾を押し付け、床のシミを取ろうと力をこめた。
『ここ、なかなかとれんな……』
「ふぁ~……ひま……」
『……』
俺は無言のまま、あくびとだらけきった声がする方に視線を向ける。
そこには椅子に上り、テーブルを拭いているミュラの姿があった。
しかし、拭き方がかなり雑で、今にも寝そうなくらい顔がとろけきっている。
『……はぁ……暇なのはわかるが、もう少しやる気を出してくれっての……』
俺はミュラの傍へと近づいて行った。
「ミュラ」
「んあ……?」
んあ、じゃないよ。
こっちまで力が抜けそうだ。
「もっと まじめ やる」
「……だってさ~……」
「だって ない。いつ 客 来るか わからない」
「……きゃく……ここにきてから、1かいもおきゃくさんみたことないよ?」
「うっ……」
そう、ここに住み始めてからもうすぐ1年だ。
その間も相変わらず食堂に人は全く来ない……変わったところといえば、コヨミの料理の腕がだいぶ上がったところだろう。
簡単なものなら自力で作れるまで上達した。
ただ、マヨネーズを入れてアレンジしだすのは勘弁してほしい。
中には「あ、これ合うんだ」というものはあった。
しかし、外れを引くと、その日のテンションがガタ落ちしてしまうんだよな。
「……と、とにかく……いつ 来るか わからない。やる 越した事 ない」
「む~……わかったよ~」
ミュラが口を尖らせつつも、体勢を整える。
その時……食堂の入り口の扉の開く音がした。
『ん?』
コヨミは今、裏庭でニワトリたちの世話をしている。
となると、いつも漢方を買いに来る人が来たのだろう。
そう思いつつ俺は振り返った。
『…………へっ?』
扉を開けて入って来たのは、大きな体の見たことが無い狼男だった。
そして、その後ろから顔が整った姿の女性が続き、さらに遅れて杖をついた老婆がつかつかと入ってくる。
「「……」」
俺とミュラは無言のまま3人を見つめる。
3人が食堂の中へと入り、狼男が扉を閉めた。
『……誰……だ?』
この港町の住人は、まだ全員把握しきれていない。
名前や顔がつながらない人もいる。
しかし、こんな大きな体の狼男がいれば目につかないはずがない……ということは……。
「……もしかして……おきゃくさん……?」
ミュラが少しだけ首を傾けて、ぽつりとつぶやいた。
すると、老婆がゆっくりと頷く。
「そうさねぇ」
その一言で俺は固まってしまった。
『おきゃくさん……つまり、お客……えっ!? 客が来たのか!?』
俺はどうしたらいいのか、その場であたふたしてしまう。
こんなこと、はじめての経験だから……どうしたらいいんだ……。
「っん」
ミュラが椅子から降り、両手を体の前で揃えて3人の方へ向き直る。
「えっと……いらっしゃい! ……ませ! んと……こっち! ……です!」
ミュラがぎこちなく、接待を始めた。
言葉と一緒に腕を動かして、近くの席に向かって歩き出す。
3人のお客もミュラの後に続いた。
「ここ! です!」
「……ありがとう」
狼男がミュラにお礼を言い、椅子を引いた。
その椅子に、老婆が杖を横に立ててからゆっくりと座る。
それを見てから、女性が座り、狼男も座った。
『……ハッ! こうしちゃいられない! はやくコヨミさんを呼んでこないと!』
俺は裏口まで駆け出し、扉を開けて裏庭に出た。
「コヨミさん!」
「ん? どうしたっスか?」
コカとホーを撫でていたコヨミが俺の方を見る。
「客 来た!」
俺の言葉に、コカとホーを撫でていた手がぴたりと止まった。
「……はい?」
そして、首を傾げた。
あれは、いきなりの事で脳が追いついていないな。
さっきの俺と同じ反応だよ。
「だから! 客 来た!」
「マジっスか!?」
もう一度言うと、コヨミの肩が小さく跳ね、勢いよく立ち上がった。
その勢いに、コカとホーがコケェエエエと鳴きながら逃げて行ってしまう。
「早く 接待!」
「りょ、了解っス!」
コヨミが慌てて食堂内に入っていき、めいいっぱいの笑顔と声を上げた。
「いらっしゃ――」
しかし、その声はお客を見た瞬間、すぐに止まった。
そして、コヨミの笑顔も体も凍り付いたように固まってしまっている。
『……? どうしたんだ?』
コヨミの方を狼男、女性……そして、老婆がじっと見つめていた。
なんだ、食堂内が妙な空気になっている気がするぞ。
「……どう した?」
俺は恐る恐るコヨミの顔を覗き込んだ。
コヨミは笑顔のまま脂汗をかき、口角をピクピクさせていた。
この感じ……もしかして……。
「久しぶりだねぇ……コヨミ……」
老婆がそう言うと、固まっていたコヨミがびくりと跳ねた。
やっぱり、この人たちはコヨミの知り合いか。
「元気にしてたかい」
「……え……あ……う……うん……」
まるで油の切れたロボットの様にぎこちなく頷くコヨミ。
これは相当動揺しているな。
「……? コヨミおねえちゃんのともだち?」
ミュラがそう聞くと、コヨミはぎこちなく首を振った。
「……違うっス……ウチのお父さんとお母さん……」
コヨミは狼男と女性に顔を向けた後、最後に老婆で止まる。
「……お婆ちゃん……っス……」




