この世界の『哲学』について
翌日の講義で、アマネは一冊の古い教本を持ってきた。
革表紙は黒ずみ、金色で刻まれていた題名も半分ほど剥げている。
「『精霊叡智集成』……」
ゼリエが題名を読み上げた。
「神学院でも使われている本です」
「君の家にもある?」
「はい。父と母が研究しています」
アマネは教本を開き、ある頁を生徒たちへ見せた。
炎に包まれた精霊の挿絵。その周囲には、詩のような文章がびっしりと書き込まれている。
「ここには、こう書かれている。炎とは、赤き精霊の情熱である。術者は己の情熱を捧げ、その共感を得ることで炎を現世へ招く」
「普通の説明じゃないか」
カシックが言った。
「僕も、この国では普通だと思う」
「また、回りくどい言い方だな」
「では、質問しよう。情熱の乏しい人間は、炎の魔術を使えないのかな」
「教本によれば、そういうことになります」
ゼリエが慎重に答えた。
「でも、感情をほとんど表に出さない術者でも、炎を扱う例はある」
「内には強い情熱を秘めているのでは?」
「その可能性はあるね。では、どうすれば確かめられる?」
ゼリエは唇を結んだ。
アマネは教本を閉じる。
「この世界で哲学と呼ばれているものの多くは、精霊の偉大さと、人間が精霊へ近づく方法を論じている。それ自体には、長い歴史がある。人々の信仰や生き方を支えてもきた」
「先生は、それが間違いだと?」
「間違いだと一括りにはできない」
ゼリエの祈祷具を握る手が、わずかに緩んだ。
「ただし、意味を与える説明と、現象を予測する説明は、同じとは限らない」
アマネは黒板へ二つの言葉を書いた。
ミュトス――世界を意味づける物語。
ロゴス――違いを分け、比較できる言葉。
「ミュトスは、嘘という意味ではない。物語によって、自分と世界の関係を形作る働きだ。この世界の詠唱――創話は、まさにミュトスを使っている」
アマネは教本の一節を読み上げた。
「炎の精霊よ、我が胸の熱を受け取り、汝の息をこの手に宿せ」
朗読しただけで、空気中のマナがかすかに震える。
「この創話では、術者は精霊へ願う者として描かれる。炎は精霊から借りるものだ。胸の熱は、その代価として差し出される」
「実際、それで魔術が発動する」
カシックが言う。
「するね。だから、無意味だとは言っていない」
「なら、何が問題なんだ」
「この物語のどの部分が、発動に必要なのか分からないことだよ」
アマネは一節を区切るように、黒板へ線を引いた。
「精霊という呼びかけが必要なのか。胸の熱を意識することが必要なのか。手へ宿すという身体像が必要なのか。一定の呼吸と音の長さが必要なのか。それとも、複数の要素が組み合わさっているのか」
ペータが顔を上げた。
「音の長さも……魔術に関係するのですか」
「する可能性が高い。君は気づいているんじゃないかな」
名指しされ、ペータの肩が跳ねた。
「わ、私は……ただ、詠唱を聞き取りやすく読むよう教えられただけで」
「聞き取りやすさは、音量だけで決まらない。息の位置、母音の長さ、音程、余韻、次の言葉へ移る速さ。君の発声には、他の受講生と違う特徴がある」
ペータは戸惑い、自分の喉元へ手を当てた。
「それが魔術と関係するかどうかは、実際に比べて確かめよう」
ゼリエが手を挙げる。
「先生。一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「先生の方法で、精霊が魔術に必要ではないと分かったら……精霊への信仰も、誤りになるのでしょうか」
その声には、単なる知的好奇心とは違う切実さがあった。
教室の視線がゼリエへ集まる。
神学者の両親。
幼いころから続けてきた祈り。
教会で出会った人々。
それらすべてが、一つの質問の背後に立っていた。
アマネはすぐには答えなかった。
「ゼリエ。君は、困っている人に食事を渡すことがある?」
「教会の慈善活動で、ときどき」
「それは、なぜ?」
「精霊と神々が、隣人を慈しむよう教えているからです。それに……苦しんでいる人を、そのままにはしたくありません」
「仮に、食事を渡す動作に精霊の直接的な力が必要ないと分かったら、君がその人を助けた意味は消えるかな」
「いいえ」
「僕も、同じだと思う」
アマネは教本へ手を置いた。
「魔術がどのような仕組みで起きるかという問いと、精霊を信じることで人が何を大切にするかという問いは、分けて考えられる。僕は精霊の存在を否定するために、魔術を研究しているわけではない」
「では、共存できると?」
「できるかどうかを、これから考える。最初から敵同士だと決める必要はないよ」
ゼリエは祈祷具から手を離した。
「……ありがとうございます」
「甘いな」
カシックが低く言った。
「何が?」
「こいつの家は精霊を信じてる。俺の家は、精霊学派を敵だと思ってる。どっちも、お前の理論を自分たちの味方にしたがるぞ」
「そうだろうね」
「なら、先に敵を決めた方が楽だ」
「楽でも、正しくない」
「正しさだけで学問を守れると思ってるのか」
その言葉に、アマネの瞳が一瞬だけ揺れた。
事実より速く走った物語。
他人によって決められた敵と味方。
前世の記憶が、薄い刃のように胸をかすめる。
「……思っていない」
アマネは答えた。
「学問が政治に利用されることも、人を傷つける物語に変えられることも知っている」
「だったら」
「だからこそ、僕は君たちに、結論より先に方法を教えたい」
カシックが黙る。
「僕の理論を、精霊学派を攻撃する武器にしてはいけない。同時に、精霊学派を守るために観察結果を隠してもいけない。学問は、誰かの敵になることを目的にするのではなく、これまで見えなかったものを見えるようにするためにある」
「綺麗事だ」
「そうかもしれない」
「否定しないのかよ」
「綺麗な言葉を言うだけなら、綺麗事だ。実際に守れる方法を作れたとき、初めて原則になる」
カシックはアマネを睨んだ。
だが、その表情からは、教室へ入ってきたときの露骨な警戒が少しだけ薄れていた。
窓の外では雨が降り始めていた。
学院の中庭に立つ精霊像の肩を、水滴が静かに流れていく。
像へ祈る者がいた。
雨量を測る者もいた。
どちらも、同じ雨の下に立っていた。




