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魔術哲学の講師とノンアリアの魔女  作者: 隆塚司


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大森天音/アマネ・フィロソフィア

 アマネ・フィロソフィアには、別の名前があった。


 大森天音。


 海も、空を飛ぶ竜も、杖一本で水を生み出す術者も存在しない世界で、かつて彼が名乗っていた名前である。


 前世の天音は、生まれつき身体が弱かった。


 体育の授業にはほとんど参加できず、季節が変わるたびに熱を出した。遠足の翌日には寝込み、友人と同じ速度で廊下を走ることさえ難しかった。


 窓の外には、いつも自分より速く動く世界があった。


 だから天音は、本を読んだ。


 本の中でなら、身体は足枷にならなかった。


 古代の都市へ行くことも、星の内部を旅することも、数千年前に死んだ人間と議論することもできた。


 数式は、天音の身体を見下さなかった。


 論理は、歩くのが遅いという理由で彼を置いていかなかった。


 世界は広すぎたが、理解には手すりがあった。


 哲学、数学、物理学、化学、生物学。


 歴史、言語学、経済学、法学。


 一つの学問で分からないことが、別の学問の言葉を借りると見えてくる。その瞬間が、天音は何より好きだった。


 やがて彼は大学へ進み、専門の境界をほとんど気にせず研究を続けた。


 年齢に見合わない知識。


 分野の異なる理論をつなぐ発想。


 相手の主張を一度受け止め、どこまでが事実で、どこからが解釈なのかを切り分ける議論。


 周囲は彼を天才と呼んだ。


 けれど、天音自身にとって学問は、優秀さを証明するためのものではなかった。


 生き延びるための方法だった。


 理解できれば、少なくとも何が自分を傷つけているのかは分かる。


 そう信じていた。


 ――しかし、人間の社会は、正しい説明だけでは動かなかった。


 ある発言が切り取られた。


 ある文章が、本来とは別の意味で広められた。


 会ったこともない人々が、天音の人格を語り始めた。


 傲慢だ。


 危険だ。


 功績は偽物だ。


 都合が悪くなると病気を利用する。


 否定する言葉を重ねるほど、それさえも言い訳として消費された。


 事実より速く、物語が走った。


 そして多くの人々に共有された物語は、いつしか事実よりも強くなった。


 大学は距離を置いた。


 友人だった者たちは沈黙した。


 身体は、長い緊張に耐えられなかった。


 大森天音が最後に見たものが、病室の天井だったのか、自宅の机に開いた本だったのか、アマネ自身にも分からない。


 ただ一つ、鮮明に残っている感覚がある。


 自分の人生が、自分ではない誰かの言葉によって書き換えられていく感覚。


 自分が何を思い、何を意図していたかとは無関係に、別の物語の登場人物にされていく感覚。


 だから、生まれ変わったアマネが、この世界の魔術を見て最初に抱いた感想は、驚きだけではなかった。


 ――これは、物語が現実を動かす世界なのだ。


 幼いアマネを抱き上げた母、シャイナー・フィロソフィアが、子守歌を歌う。


 歌詞に呼ばれた淡い光が、寝台の周囲を漂った。


 父ウィットルが暖炉へ短い詠唱を投げると、消えかけていた炎が息を吹き返した。


 人々はそれを精霊の恩恵と呼んだ。


 しかし、アマネには別のものも見えていた。


 言葉を発するときの呼吸。


 身体の緊張。


 術者が自分と対象をどう捉えているか。


 詠唱が描く物語の中で、誰が命じ、誰が命じられ、何がどのようなものとして語られているか。


 たとえば、同じ火の詠唱でも、


 火へ懇願する者。


 火と取引する者。


 自らを火の一部として語る者。


 世界へ当然のように火の出現を宣言する者。


 それぞれで、マナの動きは微妙に異なっていた。


 アマネは成長するにつれ、その違いを記録した。


 六歳で父の教本を読み終えた。


 九歳で学院の公開講義へ通い始めた。


 十二歳になるころには、既存の魔術理論が「成功した術者の経験」を中心に作られ、失敗した術者の経験をほとんど無視していることに気づいた。


 十四歳の冬、アマネは一編の論考をまとめた。


 題名は、『創話における一人称の欠落について』。


 魔術が発動しない者の中には、マナ容量や詠唱技術ではなく、創話の内部に自分自身を術者として位置づけられない者がいる――という仮説だった。


 その論考を読んだグランマルス魔術学院長、ルートヴィヒは、アマネを学院長室へ呼び出した。


「君の仮説が正しいとすれば」


 老学院長は、机の上の論考を指先で軽く叩いた。


「魔術不発者の一部は、才能を欠いているのではない。教え方によって、魔術を奪われていることになる」


「可能性としては」


「断言しないのだな」


「まだ観察例が少なすぎます」


「その慎重さは気に入った」


 学院長室の隅では、父ウィットルが腕を組み、息子と学院長を交互に見ていた。


 その隣には、父の古い友人であるクレパス・グレアスター教授もいる。


「だが、観察例を増やすには、君に教室が必要だ」


 ルートヴィヒは言った。


「アマネ・フィロソフィア。グランマルス魔術学院に、新たな少人数クラスを設ける。君に講師を務めてもらいたい」


 ウィットルの眉が、わずかに動いた。


「学院長。こいつはまだ十五歳です」


「知っている」


「中等部の生徒でもある」


「それも知っている」


「アマネを見世物にするつもりなら――」


「父さん」


 アマネが静かに遮った。


 ウィットルは口を閉じる。


「僕は、やってみたい」


「……怖くないのか」


「怖いよ」


 その答えに、父はかえって困った顔をした。


「前の世界でも、言葉を使う場所に立った。そして、言葉によって壊された。それでも、言葉そのものが悪かったとは思っていない」


 アマネは、自分の論考へ目を落とした。


「今度は、誰かが自分の言葉を取り戻すために使ってみたい」


 講師就任の朝、母シャイナーは、身体に合わない講師服の袖を三度も折り直した。


「立派に見せる必要なんてないのよ」


「講師服を着せながら言うことかな」


「あなたは、立派に見せなくても立派だもの」


「母さんは僕の評価に向いていないと思う」


「あら。世界でいちばん長くあなたを観察しているのに?」


 シャイナーは笑い、襟元を整えた。


 玄関ではウィットルが待っていた。


「無理をするな」


「分かってる」


「分かっているやつは、十歳で徹夜して魔術史全集を読破したりしない」


「過去の一例から一般化するのは危険だよ」


「そういう屁理屈を言うから心配なんだ」


 父と並んで、アマネは朝のグランマリアを歩いた。


 尖塔の間を魔導艇が行き交い、商店の軒先では小さな風精霊が看板を揺らしている。


 そのすべてを眺めながら、アマネは上着の内側に忍ばせた小さなノートへ触れた。


 最初の頁に、一つだけ問いが書かれている。


 その物語を語っているのは、誰か。


 黒板の前に立った現在のアマネは、石筆についた白い粉を親指で払った。


 最前列では、アリシアが自分のマナ感覚を言葉にしようと、懸命に考えている。


「では、続きを始めよう」


 大森天音を壊した問いが、今度はアマネ・フィロソフィアの教室で、誰かを救う問いになろうとしていた。

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