第8話 時折教えてください
「あなたのお母様――フィデリア様からの、依頼よ」
「お母様、の……?」
メイが懐から取り出したのは、一枚の書状だった。
老婆が茶を置き、そのまま向かいに腰を下ろす。何も言わなかった。
差し出された書状を、リリアはおそるおそる受け取る。
几帳面な文字が、整然と並んでいた。
寝る前に読んでもらった手紙。誕生日に添えられた、一言。
忘れようのない、母の字だった。
「依頼内容は――娘の保護」
メイの声が、静かに続く。
「無事でいられるよう、見守ること。それだけよ」
指先が、紙の上でふるえている。
あの朝、リリアは何も言わずに屋敷を出た。
書き置きも残さなかった。残せば、追われると思ったから。
置いてきたのだ、と思っていた。
母を、あの家に。
「受けたのは、あなたが屋敷を抜け出して、すぐよ」
リリアは、顔を上げた。
「……そんな、すぐに?」
「ええ」
「……お母様は、めったに、外へ出られないです。ギルドへ依頼なんて、どうやって?」
「相当なお金を動かして、人を使い、口止めまで済ませたはずよ」
メイの声が、平坦になった。
「アロフィス様の奥様方は、自由がないものね」
言われて、思い出す。
父は、自分の女たちが男と会うことを嫌い、外出を許さなかった。
『外は危ないよ』
あれを、心配だと思っていた。
「報酬額、見てみる?」
書状の隅を指さされ、リリアは目を落とした。
そこに記された数字に、息が止まる。
隣で、短く息を吸う音がした。
老婆だった。それきり、何も言わない。
「これ……こんな、大きなお金……」
「ご自分で稼いだお金よ」
「稼いだ……?」
「聞いていないの?」
メイは、少しだけ首をかしげた。
「あなたのお母様は、冒険者だったの。アロフィス様と、同じパーティーにいらしたわ」
言葉が、うまく入ってこない。
母は、いつも屋敷の奥にいる人だった。
庭にも、めったに出ない。
誰かに守られ、微笑んで、それだけの人だと思っていた。
「……お母様が」
「アロフィス様、今でこそ傭兵団を率いて魔物討伐に向かうけど、最初はお母様と二人で名を上げたのよ」
ふと、思い出す。
いつだったか、父が母の首元を見て、朗らかに笑ったことがあった。
『フィデリアは、こういうものを贈る相手じゃないんだ』
三人目の妻に贈るための首飾りを、手にしたままで。
『貧乏な頃から一緒に稼いできたからな』
母は、ただ微笑んでいた。
『ええ』
あのとき、母が何を思っていたのか、リリアは知らない。
ただ、そう言われて頷いた人の稼ぎが、いま、自分の膝の上にある。
「次の条件はね」
メイの声が、少し低くなった。
「アロフィス様には、決して知らせないこと」
「……お父様に、内緒で」
「そう」
メイは、書状の最後を、そっと指し示す。
「そして、最後にね」
「まだ、あるんですか」
「これが、一番よ」
その一文だけは、他よりも小さな、けれど確かな筆跡で書かれていた。
『ただ、無事だとだけ、時折教えてください』
息が、詰まった。
顔を、上げる。
「あの、わたし」
声が、早まる。
「お手紙、書いてもいいですか」
メイの指が、カップの縁で止まった。
「……無事だって、それだけなら」
「リリア」
遮る声は、低かった。
「あなたの手紙は、どこに届くと思う?」
言われて、はじめて気づく。
母のいる場所は、父のいる場所だ。
同じ屋敷。同じ玄関。同じ、家令の手。母の侍女ですら、父の手の者だ。
「……あ」
「あなたの字は、使えない。手紙に残せないの」
リリアは、書状に目を落としたまま動かない。
メイは、カップを置いた。
「一度、お母様にお知らせしたわ」
リリアの動きが、止まる。
「見つけた、と」
いつ、と聞こうとして、聞けなかった。
安心したのだろうか。泣いたのだろうか。
わからない。
わからないまま、書状の隅を見た。
小さな、確かな文字。
『時折教えてください』
この人は、迎えに来ないつもりなのだ、と思った。
連れ戻すとも、帰ってきなさいとも、どこにも書いていない。
娘が屋敷を出たと知って、母がしたのは、探すことではなかった。
守らせることだった。
出ていった先で、生きていけるように。
(お母様は、わたしを)
置いてきたのだと、思っていた。
違った。
(……出して、くださったんだ)
こらえていたものが、堰を切った。
「お母様……っ」
メイは何も言わず、懐からハンカチを取り出すと、そっとテーブルに置く。
「使うといいわ」
目元に押し当てる。頬に残っていたものが、音もなく吸い込まれていく。
「……これ、洗ってお返しします」
「ふふっ、お洗濯できるようになったのね?」
老婆が、カップを置く手を止めた。
「リリアは力が強すぎて、破れっちまいそうだよ」
「お、おばあちゃん! 今度は大丈夫です! ……たぶん」
目を赤くしたまま、むくれるリリア。
老婆とメイがぷっと吹き出す。
「ふふ、リリアが家事できるようになりましたって、次は報告できるかもしれないわね」
「は、はい!」
窓の外では、波の音だけが続いている。
「さて、話の続きよ」
メイは、姿勢を正した。
「わたくし、依頼を受けた以上、あなたを保護するだけで終わらせるつもりはないの」
「保護するだけ、じゃなく……?」
「ええ」
まっすぐに、リリアを見る。
「リリアには、父親を超えてもらうわ」
「え――?」
想像もしなかった一言だった。
父を、超える。
あの人と並ぶことなんて、考えたこともない。
「……あの。それも、お母様の依頼ですか」
「いいえ」
メイは、さらりと続けた。
「わたくしが、勝手にそうするの」
リリアは、濡れたままの目でメイを見上げる。
(……そうしたら、お母様の力になれる)
膝の上のハンカチを、握る指に力がこもった。




