第66話 白粉の下
生まれてから家出するまで、ずっと暮らしてきた屋敷。
隠し通路の存在など、思いもしなかった。
そこは狭く、暗かった。
壁に手をつくと、ひやりと湿っている。
リリアは、足もとに目を凝らす。
薄く積もった埃に、足跡が重なっている。小さな靴が、いくつも。それから、大きな長靴。
(女の人が、たくさん……。それに、男の人の足)
父アロフィスは、屋敷に男性を入れたがらなかったはず。
そして、この通路の入り口は、第二夫人の部屋にあった。
(指示したのは、レナリルさんかな……)
物心つく前から、父のそばにいた、妖艶で底知れない女性。
通路は、下へ、下へと続いている。
突き当たりの梯子を上ると、知らない家の地下室に出た。
空の木箱が積まれ、床には蝋燭の溶けた跡がある。人の気配は、もうない。
(ここ、きっと協力者の家……)
階段を上がり、裏口から路地へ。
足跡は、石畳の上で途切れていた。けれど、壁際の苔が、ところどころ踏みにじられている。
家や壁、水路の隙間。
(道じゃないところが道になってる……)
やがて、都市城壁が見えてきた。
壁の根もと、雑草の陰に、鉄格子のはまった水抜き穴。
格子は、外されていた。
しゃがみこむと、穴の向こうから、風が吹きこんできた。
(……街の外)
◇
城壁の外は、なだらかな草原だった。
湿った土に、足跡が残っている。
小さな靴が、乱れながら続く。その前後を、大きな長靴が挟むように。
(足跡が、はっきりしてる。走らないで、歩いてたってことだよね)
でも、出たのが夜のうちなら――。
(もう、ずいぶん先まで行ってる)
リリアは、地を蹴った。
草が、後ろへ流れていく。風が、耳もとで鳴った。
丘をいくつも越えた。小川を跳び越え、林を抜けた。
足跡は、街道を避けるように、ゆるく曲がりながら続いている。
昇りかけだった陽が、いつのまにか高くなっていた。
ひときわ大きな丘の上で、足を止めた。
街道から外れた斜面の先を、女たちの列がのろのろと歩いている。見覚えのある、屋敷の侍女のお仕着せ。
その前後を、武装した男たちが十人ほど、囲むように歩いていた。
(傭兵……と、侍女)
リリアは、伏せたまま目を凝らした。
黒寄りの紫の髪を探す。
いない。
代わりに、列の中ほどに、ひときわ目を引く女がいた。
亜麻色の髪。足取りが、おぼつかない。ときおり立ち止まっては、口もとを押さえている。
(あの人……広場で、手首を掲げられていた)
オルメーヌ。
あの日、父の隣に立っていた女。
(やっぱり、レナリルさんが見当たらない。持ち出したはずの資産と証拠品は……)
情報が欲しい。
(耳には自信があるけど……さすがに遠くて聞こえない。これ以上は、見通しがよすぎて近づけないし)
リリアは、上着の裾をそっとめくった。
(えっと……集音器は、たしか左の、上から三つ目……)
小袋から、貝殻ほどの小さな金具をつまみ出す。耳に押し当てると、風の音が引いて、遠くの男たちの声が、すぐ隣で話しているように聞こえた。
「……おい、あの娼婦、足が止まったら捨ててきてもいいんだろ?」
「いや、口がきけなくなるのを確認してから、という指示だ。……まあ、もう限界だろう」
(指示……。誰の?)
「ここまで来りゃ、追っ手も来ねえだろ。足の遅い侍女どもを連れて、苦労したぜ」
「……よし、しばらく先に、ちょうどいい茂みがある。そこで楽しもうぜ」
「娼婦はどうする?」
「いくら綺麗どころでも、ああなっては手を出す気になれねえよ。俺は侍女の娘のほうがいい」
「おい! あの茂みの陰で休憩だ! もう少し、急げ!」
意味を察した侍女たちの顔から、色が引いていく。
◇
工房室の灯りの下、衣装台に掛けられた白騎士服を前にして、リリアは膝の上で手を握りしめていた。
「あの、自信ないです。急に、白騎士なんて……」
「白騎士団長、直々の推薦だ。リリアは若いが、潜在能力と、善悪を見抜く力を評価された」
「なぜ……団長さんがわたしを……それに、何をすればいいか」
乳母車の上で、ノエルはガラガラを振り回し、短い足をばたつかせている。
リオルは愛娘のよだれを拭きとりながら、言葉を継ぐ。
「白騎士になれば、生涯、金に困ることがなくなる。身分差も男尊女卑も激しいこの大陸で、女が自由に生きるにもってこいだぞ」
「……女でも、自由に?」
母も、奴隷たちも、娼婦たちも。この都市の女たちは、なにかに縛られて生きている。
「時折、任務が出るが、他は今まで通りでいい。正しく判断し、悪を叩きのめす」
「正しいかどうかなんて、よくわからないときもあります」
「よくわからないときは、待てばいいだけだろう? 本当に正しいことは、秒でわかるはずだ」
「秒……って。わたしに、そんな力はありません」
リリアが乳母車に視線を落とすと、ノエルが、すぐそばに飾られた騎士服の袖口へ、小さな手を伸ばしていた。白銀の竜を掴もうと、きゃっきゃと声を上げている。
その無邪気な姿に、口元をゆるめるリオル。
「そうだな、もし自信を持てないときは、相手の色を感じろ」
「色?」
「リリアは直感があるから、わかるはずだ。真っ黒や、どぎつい赤のやつが悪事を働いていたら、殺してしまえ」
「それは……怖いです」
「なら、制圧したら、これを飲ませるといい。強烈な化学去勢……無気力化する薬だ」
「……よくわかりませんけど、いいんですか?」
「大陸には、罪人を何年も閉じ込めておく場所がない。現行犯は、その場で処罰するしかないんだ」
◇
リリアは目を閉じた。
目の前の傭兵たち、ひとりひとりの性質を感じる。
いいようのない不快感、嫌悪感。
(……黒とか赤の人が多い。やっちゃって、いいよね)
地を蹴った。
走りながら、腰の短剣を二本、逆手に抜く。
侍女の肩に手をかけた傭兵の、膝の裏を刃が撫でた。
男が、声もなく崩れ落ちる。
「な、なんだ!?」
振り向いた二人目の足首へ、身を沈めて一閃。
三人目が剣を抜く。抜ききる前に、その手首の腱を断った。剣が、草の上に落ちる。
「こいつ、強いぞ!」
「一気にかかれ!」
四人目と五人目が、同時に斬りかかってきた。
刃と刃のぶつかる音が、二度。
弾かれた男たちの脇をすり抜けざまに、刃が二度、低く走った。
五人が、草の上に転がっていた。
誰も、立ち上がれない。
息をひとつ吐くあいだの、ことだった。
残った傭兵たちが、じりじりと後ずさる。
「白い袖に、竜の紋……。白騎士だ」
「冗談だろ……なんで、こんなところに」
「簡単な仕事じゃ、なかったのかよ」
剣先が、震えている。
ひとりの男の目が、横へ流れた。
すぐそばで、へたりこんでいる侍女へ。
(――人質)
男の手が伸びる。
その指先が侍女の髪に届くより早く、リリアの指弾が、男の手首を打ち抜いていた。
悲鳴を上げて、男が手を抱えこむ。
次の瞬間には、もう、その背後にいた。
首筋に、短剣の峰を当てる。
「動かないでください」
静かな声だった。
残る男たちが、顔を見合わせる。
一本、また一本と、剣が草の上に落ちた。
「座ってください。……逃げたら、足を斬り飛ばします」
足もとで呻く仲間たちを見て、男たちは、黙って膝をついた。
(えっと……まずは自白剤。右の、二番めだったかな)
背後で、どさりと音がした。
振り返ると、オルメーヌが草の上に崩れていた。
体を折り、激しくえずく。止まらない。
鼻をつく、嫌なにおいが漂った。
侍女たちが、後ずさる。誰も、近づこうとしない。
リリアは、駆け寄った。
抱き起こすと、オルメーヌの肌は、じっとりと汗に濡れていた。
頬の白粉が、汗でよれていく。
ダマになって浮いたその下から、青黒い痣がのぞいた。
頬にも、首すじにも、腕にも。いくつも、いくつも。
(隠してたんだ……。こんなに)
広場で掲げられた手首の痣は、そのうちの、たった一つにすぎなかった。
「……あなた……怖くないの?」
かすれた声だった。
「だいじょうぶです」
オーラ使いは、病にかかりにくい。
リリアは、裾から痛み止めの小瓶を取り出した。
「……気休めですが、これ、飲んでください」
オルメーヌの口に、そっと注ぎ込む。
苦悶の表情が、わずかに穏やかになった。
「……病の、薬だって……あの女が、くれたの……たぶん、毒だった」
オルメーヌの唇が、震えた。
「……レナリルは……司教の、兄の……貴族のところへ、逃げた、はず……」
「どうして、知ってるんですか?」
「有名な、話だよ……。あの女、元は、その貴族の……」
言葉が、途切れる。
オルメーヌの指が、リリアの袖を掴んだ。
「……悔しいよ……」
指から、力が抜けた。
草原を、風が渡っていった。




