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英雄ハーレム、崩壊記〜その娘が父の裏の顔を暴き、超えるまで〜  作者: 水戸直樹


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第65話 ここにいさせて

 主人不在のアロフィス・ソルゾラス邸。母屋は、静まり返っていた。


 第三夫人ゼフィーラは、長い廊下を一人で歩いていく。

 厨房から、煮炊きの匂いがしない。磨き上げられていたはずの床に、うっすらと埃が浮いている。


「おかしいな……。使用人の一人もいない」


 突き当たりの部屋の扉が、半分開いている。


「フィデリア、入るよ」


 天蓋付きの寝台の端に、第一夫人フィデリアが腰かけていた。

 膝の上に、読みかけの本。窓から差す光が、黒茶の髪を淡く照らしている。

 目を上げると、本を閉じた。


「おはよう、ゼフィーラ」

「おはよう。……早いね。ずっと起きてたの?」

「ええ。……なんだか、静かすぎて」


 ゼフィーラは、廊下のほうを振り返った。


「昨日くらいから、忌々しい見張りの侍女たちがいないんだよね。フィデリア、知ってる?」

「ごめんね、私、何も知らないのよ。……教えてもらえないし」


 フィデリアは、小さく笑った。


 男の目には触れさせず、そのくせ、何ひとつ教えない。

 アロフィスは、そうやって彼女を檻に閉じ込めてきた。


 その檻の扉が、いまは開いている。

 見張りもいない。鍵もかかっていない。

 それでも、フィデリアは寝台から動かなかった。


「……とりあえず、離れに来なよ。ここに一人でいるのは、物騒だ」

「でも、あの人が帰ってきたら……」

「帰ってきたら、あたしが話をつける」


 手を取ると、驚くほど冷たかった。


 ふいに、フィデリアが窓のほうを向く。


「……門のほうに、人がたくさん」


 ゼフィーラが耳を澄ますより早く、どよめきが上がった。


 ◇


 ソルゾラス邸の門前には、警吏たちが列をなしていた。


「……人の気配が、まるでないな」


 包囲の指揮をとる警吏が、首をひねる。

 前夜の包囲から、出入りする者は一人もいない。朝餉の時刻だというのに、煙突から煙も上がらない。


 野次馬たちがざわめいた。


「おい、見ろ」

「あれ……白騎士じゃないか?」

「本物か? なんで、こんなところに」


 監察官の印章を胸に下げたセシリアが、馬車を降りる。

 その一歩後ろを、白い騎士服の少女が歩いていた。


 陽を受けて、真っ白な布地が輝く。角度によっては、虹色にも見えた。

 腰には二振りの短剣。袖口で、白銀の竜が光った。


「あのお嬢ちゃん、白騎士だったのか。道理で強いわけだ」

「見ろよ、あの顔。父親だろうと許さない、って決意に満ち溢れてるぜ」


 リリアは、まっすぐ前を向いたまま、固まっていた。


(そんなんじゃないよ……。そんなに見ないで……)


 警吏が、セシリアに敬礼する。


「監察官殿。ご指示どおり、包囲から誰も出しておりません。ただ……中に、人がいる様子がないのです」


 警吏は、リリアにも向き直り、踵を揃えた。


「白騎士殿にも、ご足労いただき恐縮です」

「は、はいっ」


(ど、どうしよう、目立って困る。次から普段着で来よう……)


 セシリアは、屋敷を見上げた。


「……そう。入りましょう」


 ◇


 かつて暮らしていた屋敷。

 勝手を知るリリアが先頭を歩く。


 玄関の扉には、鍵もかかっていなかった。


 広間にも、廊下にも、誰もいない。

 磨かれた床に、足音だけが響く。


(ここ、こんなに広かったっけ……)


 奥から、二つの人影が現れた。


「お母様!」

「……え、リリア!」


 よろめくように、近づくフィデリア。

 ふと、足を止めた。


「……ウェディングドレス? ど、どうしたの? もしかして、いいお相手が……」

「あ……あの……」


(わたしも、同じこと言った……)


 ゼフィーラが、フィデリアの肩を叩いた。


「フィデリア、リリアが着てるの、白騎士の制服だと思うよ。……ほら、武器やら、防護魔法やら、いっぱいついてるだろ?」

「え? あら? ……ごめんなさい。でも、とっても素敵な騎士服だわ」


 それから、まじまじと娘を見た。


 白い騎士服。腰の短剣。

 その目が、袖口で止まった。


「まあ! 『7』って、あなたの誕生日じゃない」


 嬉しそうに微笑むフィデリア。


「はい。お母様と同じ七月の、七です」


 しばし、抱き合う二人。


 その横で、ゼフィーラが警吏たちを見回した。


「それで、お客さんがた、なんの用だい? 見たところ、警吏みたいだけど。……アロフィスがなにかやらかしたね?」


 セシリアが、一歩前に出る。


「ドゥルセ商会のセシリア・ドゥルセです。本日は、都市政府の監察官としてまいりました」


 そして、静かに告げた。

 アロフィスが神判に敗れたこと。罪が確定し、いまは教会前広場の晒し台にいること。

 そして、顔が変色するほど、病が進んでいること。


 フィデリアは、黙って聞いていた。

 表情は消えていたが、覚悟はしていたようだった。


「……そう。いつかは、こうなってもおかしくないと思っていました」


 リリアは、母の手を取った。


「お母様。沿岸区に、お母様のお部屋も用意できます。……もう、ここにいなくても」


 それ以上は、言わなかった。

 選ぶのは、母だから。


 フィデリアは、娘の手を見つめた。

 それから、ゆっくりと首を横に振った。


「ごめんね、リリア」

「……お母様」


「あなたからすれば、どうしようもない父親なのは、よくわかる……」


 フィデリアの目が、窓の外へ向いた。

 ここではない、どこか遠い日を見ているようだった。


「でもね、私の父親。あなたにとってのお祖父様も、恐ろしい人だったの。アロフィスは、そこから私を連れ出してくれた。……救われたのは、本当なのよ」


 小さな声だった。けれど、迷いはなかった。


「それに、あの病は、放っておけば悪くなるばかりでしょう? 冒険者だった頃の治癒術が、まだ少しは使えるの。だから、彼がせめて罪を償うまでは……ここにいさせて」


 リリアは、何か言いかけて、やめた。


 父の言葉は、嘘ばかり。

 けれど、母がいま差し出したのは、本当だった。


「……わかりました」


 握った手を、そっと離す。


 その手を、フィデリアがもう一度だけ包んだ。


「あなたは、自分で選んで、ここまで来たのね。……私と違って」


 ゼフィーラが、大げさにため息をついた。


「あんた、ほんと、男を見る目がないよね。あんなダメ男を」

「……ゼフィーラ。仕方ないわ、嘘つきで浮気者でも、幼馴染なんだから」

「まぁ……そうだね。あたしだって、言えたことじゃないし。お互い様か」


 ゼフィーラは、苦笑いして頭を掻いた。

 フィデリアも、つられたように、小さく笑った。


「それより、監察官さん。離れに女ばかり五十人いるんだ。あの子たちは、どうなる?」

「その子たちは、そもそも奴隷ではありません。アロフィス様は、彼女たちを連れ出してはいけなかった」

「……だよね。あたしもそう言ったんだけど、聞いてもらえなくてね。……てことは?」

「はい、全員、沿岸区の市民として引き取ります。ただ、ゼフィーラ様の元に残りたい子がいれば、残していただいてよいかと。当面の生活費は支援します」


 ゼフィーラの肩から、ふっと力が抜けた。


「……よかった。あの子たち、もう誰のものでもないんだね」


 ◇


 警吏の一人が、駆け足で戻ってきた。


「監察官殿! 母屋を改めました。使用人は、一人も残っておりません」

「そう」

「それから、第四夫人の部屋ですが……寝台に、埃が積もっておりました。ずいぶん前から、誰も使っていないようです」


 フィデリアが、息を呑んだ。


「そんな……あの子は、具合が悪くて部屋から出られないって、あの人が……」


 警吏は、言葉を継いだ。


「第二夫人レナリルの部屋は、もぬけの殻です。金庫も、帳簿も、書類の一枚も残っていません」


 セシリアの目が、細くなった。


「……どういうことかしら? 直ちに包囲したはずだけれども」


 別の警吏が駆け込んでくる。


「隠し通路を発見しました! 第二夫人の部屋……最近、使われた形跡があります!」


 ゼフィーラが、舌打ちした。


「あの女……やっぱり、逃げる算段してたんだ」


 真っ先に動いたのは、リリアだった。


「わたし、先まで見てきます。早い方が、いいですよね?」

「その通りよ。足取りは、時間が経つほど消えていくわ。……潜入用の物資は持ってきているのね?」

「はい、ここに」


 リリアが上着の裾をめくると、裏地にずらりと小袋が並んでいた。

 針金、小瓶、細い縄、閃光玉。

 もう片方の裾には、飴玉やドライフルーツなどの保存食。

 袖の内側からは、薄い刃が一枚のぞいている。


「……それ、全部リオルの仕込み?」

「はい。まだ、半分も覚えきれてなくて。わたしは戦争よりも、潜入に向いてると言われて、多めに渡されました」


 セシリアが小さくため息をつき、フィデリアは目を丸くした。


「あら、まあ……白騎士って、大変なのね」


「では、いってきます!」


 白い影が揺れると、もう、その姿は見えなくなっていた。


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