第63話 七月七日
雷鳴の余韻が残る、教会前広場。
焦げた匂いが、風に混じって流れてくる。
教会の階段には、黒い焼け跡が一筋、まっすぐに刻まれていた。
「……司教様?」
誰かが、かすれた声でつぶやいた。
答える者はいない。
うつ伏せの司教マルドゥクは、ぴくりとも動かなかった。
法衣は、両肩から先が無かった。焼け焦げた跡すらない。袖ごと、腕ごと、はじめから無かったかのように消え失せていた。
聖騎士の一人が駆け寄り、膝をついた。
首筋に指を当て、短く息を吐く。
「……息は、ある」
もう一人は、剣の柄を握ったまま、空を見上げていた。
黒雲は、嘘のようにほどけはじめている。
「魔術師の仕業か? どこだ!」
聖騎士の叫びに、司祭が青い顔で首を振った。
「い、いえ……わずかな魔力の残り香すら、ありません」
「……つまり、魔術ではないと?」
「あれが魔術だとしたら、必ず痕跡が残るはずなのです」
「ならば、なぜ司教様に雷が?」
「聖典にある神雷に、状況が酷似しておりました。……言いにくいのですが、神判に手を加えたため、かと」
「馬鹿な。そんなことは、よくあることだ」
「しかし、我々の知る魔術ではないことは、たしかなのです」
司祭の声は、そこで途切れた。
代わりに、信徒の一人が言った。
「……天罰だ」
その一言が、水に落とした墨のように、広場に広がっていく。
「女神様が、司教様を裁いたんだ」
「やっぱり、さっきのは反則だったんだよ!」
階段に近い一角だけが、しんと静まりかえっていた。
さっきまで手を叩いていた信徒たちの手が、膝の上で固まっている。
◇
リリアは、ゆっくりと振り返った。
黄金の鎧が、まだ石畳に座りこんでいる。
継ぎ目から漏れる光は、もう、ほとんど見えなかった。
「どうします? 降参しますか?」
「く……いや……しかし」
父の目が、階段の上と、リリアの間を、せわしなく行き来する。
自分に与した審判はいない。
頼みの聖遺物の光は消えかけている。
「負けを認めろ!」
観衆の中から、声が飛んだ。
「そうだ! 英雄なら、潔く!」
「お前にも天罰が下るぞ!」
ブーイングが、波のように押し寄せてくる。
ついさっきまで、同じ口が「英雄様」と叫んでいた。
◇
「盛り上がってるわね」
「偶像の化けの皮が剥がれれば、こんなものだ」
貴賓席で、リオルは組んでいた手をほどき、何事もなかったように膝の上に置いた。
「魔法科学による落雷。容赦のない一撃だこと」
「容赦なく首を絞められたからな。手加減どころじゃなかった」
「ちょっ! そんなに強くなかったはずよ」
「まあ、いいが。それより、さっきから本性が出てるぞ」
セシリアは、夫の横顔をしばらく見つめると、唇をとがらせた。
◇
父が、ようやく立ちあがった。
鎧が、がしゃりと重く鳴る。
「い、いや。待ってくれ」
両手を広げた。
広場に向けてではない。リリアに向けて。
「君は、僕の娘なのだろう? ここは、引き分けにしよう。親子で決着を着けるなんて、酷だよ。ね、リリアーヌ」
笑っていた。
さっきまで偽物と呼んでいた相手に、父は笑顔を向けていた。
「……いま、娘って言ったぞ」
「偽物じゃなかったのかよ」
「奥方様の言ったことが、本当だったんじゃないか」
ざわめきが、さっきとは違う熱を帯びていく。
リリアは、まばたきもしなかった。
「……急に虫のいい話ですね。では、娘の誕生日、知っていますか?」
「えっ、あー、仕事で忙しくて……」
「女遊びで、でしょう? 知っていますよ、子供に興味ないこと。わたしの誕生日は七月七日です」
「あ、あはは、たかが誕生日じゃないか。大袈裟だなあ」
父が、一歩、踏みだす。
娘の肩を抱こうとするように、手を伸ばしてくる。
リリアは、半歩、下がった。
そして、眉をひそめた。
「……わたし、顔、殴ってませんよね?」
「え、どうしたんだい?」
父の頬に、青黒い染みが浮いていた。
ひとつではない。
目の下に。顎に。耳の付け根に。
見ているあいだにも、インクを垂らしたように、じわり、じわりと広がっていく。
(……あの病の痣みたい? 急に?)
痣は、殴られた所や、強く掴まれた所に出るはずだった。
リリアは、父の顔に触れてもいない。
「な、なんだい。みんな、どうして黙って……」
父が、籠手を外した。
自分の手の甲を見る。
そこにも、青黒い斑が浮いていた。
「……ひっ」
誰かが、短く悲鳴を上げた。
「あ、悪魔憑きだ……!」
「呪いだ!」
「天罰だ! 英雄にも、天罰が下ったんだ!」
人垣が、どっと後ずさる。
最前列にいた女が、口元を押さえた。
「あれ……包み紙の、絵と同じ……」
◇
「リオル、あれ、例の病よね? もしかして……」
「ああ。抵抗力のない人間が、無理やり聖遺物で……神聖力と言っておくか。それを強制的に循環させたんだ」
リオルは、目を細めた。
「体の隅々まで、病が浸透した。もう、薬は効かない」
「……初期では、ないということね」
「そういうことだ」
◇
「ま! まってくれ!」
父が、両手を突きだした。
青黒い斑の浮いた手を。
「僕は呪われてない! これは……これは、さっきの戦いで、ぶつけたんだ!」
誰も、答えない。
父が一歩進むと、人垣が二歩、下がる。
「頼む、誰か、司祭を呼んでくれ! 痣なら、消せるんだ! 金貨なら、いくらでも払う!」
声が、むなしく石畳に跳ねた。
父は、教会の階段を振り返った。
「マルドゥク様!」
聖騎士たちは、司教の体を両脇から抱えあげ、大扉の内へ運び入れようとしていた。
その一人が、扉の前で足を止め、父を見おろした。
「神判は、女神の御心により決した。約定に従い、当教会は、アロフィス・ソルゾラスの庇護を解く」
感情のない声だった。
「待て! 待ってくれ! 僕は――」
父が、階段に足をかける。
その鼻先に、聖騎士の剣が、すっと突きつけられた。
「おっと、近づくなよ。呪いがうつる。我らは、天罰について指示を仰ぐべく、神聖国に帰る」
聖騎士の目が、父の青黒い顔から、黄金の鎧へと移った。
「聖遺物は、刑が済み次第、お前が直接、聖都に返還しに来い。……我らが持ち帰りたいのは山々だが、お前と一緒に鎧も呪われたかもしれんからな」
剣が、引かれた。
重い音を立てて、大扉が閉ざされる。
父は、階段の途中に立ちつくしていた。
黄金の籠手が、閉じた扉に向かって、行き場もなく持ちあがったまま止まっていた。
◇
「警備隊だ! 道を開けろ!」
人垣の向こうから、槍を手にした一隊が走ってきた。
先頭の隊長が、階段の下で足を止める。
そして、父の顔を見て、顔をしかめた。
「……触るな。誰も、素手で触るなよ」
部下たちが、槍の石突きを父に向けたまま、半円に囲む。
縄を手にした若い警備兵が、どうしていいかわからず、隊長を見た。
「アロフィス・ソルゾラス。警吏への暴行教唆、市中への流言、ならびに神判での偽証。自由都市への重罪として、処罰する!」
「僕は、この都市の英雄だぞ! たかが警吏ごときに!」
隊長は、吐き捨てるように言った。
「まずは、晒し台で三日三晩。食うのも、寝るのも、用を足すのも、台の上だ。それが終われば、財産の一部没収、および屋敷での拘禁となる」
「待て! 晒し台だと……? 僕を、誰だと――」
「上れ。自分の足でな。……本来は腰布一枚だが、お前の呪いに触るわけにはいかん」
槍の石突きが、父の背を小突いた。
「早くしろ! 罪人が!」
「く……っ。いつか、見てろ」
それが、きっかけだった。
「英雄気分が抜けないようだ! やれ!」
隊員たちによる、槍の柄での総叩きが始まる。
観衆たちは、鬱憤を晴らすかのように野次を飛ばす。
「前から気に入らなかったんだ!」
「顔だけはよかったのに、痣だらけ。呪われたらお終いだな」
広場の晒し台。
黄金の鎧が、よろめきながら、一段、また一段と、木の階段を上っていく。
長い竿の先に吊るされた木札が、父の胸の前に下ろされる。
『流言の罪人』
「……っ」
父の唇が、震えた。
飛んできたのは、腐りかけの林檎だった。
鎧の胸板に当たって、潰れる。
「嘘つき!」
「インチキ野郎!」
卵が、野菜くずが、次々に飛んでいく。
誰も、晒し台には近づかない。
十歩も離れた所から、投げつけるだけだった。
リリアは、晒し台の上の父を見ていた。
「リリアちゃん、大丈夫?」
振り向くと、セシリアが立っていた。
その後ろで、リオルが兜をかぶりなおしている。
「わたし、冷たいですか。お父様のあんな姿を見ても、なにも感じないです」
「冷たくなんてないわ。血が繋がってるだけの他人もいれば、血の繋がらない家族もいる。私は、そう思うの」
「……そっか。わたしとお父様は、たぶん、他人なんですね」
「ええ……。だから、リリアちゃんを見て、変に欲情したりしてたのよね」
「……気づいてたんですか?」
「正直、彼の目は危ないもの。よかったわ、早めに距離をとれて」
晒し台の上から、うめき声が聞こえた。
「……まだだ、まだ僕は……」
「……」
「やっぱり、心配なの? お父様のこと?」
「いえ、あの父が、簡単に諦めるとは思えなくて……」
「それならそれで構わないだろう。あいつを英雄たらしめたもの、そっちも問題だからな」
リオルが顎で、人々をさす。
熱狂し、嗜虐的に、汚物をアロフィスに投げつける。
「手のひら返し、ね」
「……はい」
「見ても気持ちのいいものではない。すぐ宿に帰るぞ。俺たちからの報酬を用意してある」
「えっ! ほんとうですか?」
「あんな聖遺物なんぞより、よっぽどいいものだ」




