第58話 僕の娘は、まだ十三だ
「病の噂に、惑わされるな! 金持ちに負けるな! 痣は消した! 店も取り返す! この英雄アロフィスが、これまで通りの幸せを、守ってみせる!」
父アロフィスの声が、歓声の上をすべっていく。
拳を突きあげると、広場じゅうの拳がそれに続いた。
リリアは、帽子のつばの下で息を詰めていた。
人垣が揺れるたび、肩を押され、背中を押され、それでも誰も嫌な顔をしない。みんな、壇の上だけを見ている。
「壇の上からじゃ、みんなの顔がよく見えないな」
言うなり、父は壇からひらりと飛びおりた。
悲鳴のような歓声。女たちの列が、波のように崩れて英雄を囲む。
「君、その髪飾り、よく似合ってる」
「店のこと、つらかったね。大丈夫、僕たちがついてる」
「ほら、泣かないで。せっかくの化粧が台無しだ」
一人ひとりの手を取り、目を見て、笑いかけていく。
手を握られた女たちが、頬を染め、涙ぐみ、何度もうなずいた。
屋敷の食卓で、父がこんなふうに笑うのを、リリアは何度も見てきた。
客人の前で。新しい夫人の前で。
――この父は、外面だけは、異様にいい。
アロフィスが、列の端で足を止める。
首に、スカーフを巻いた女。
(……あ)
「その首、どうしたの?」
女が、びくりとスカーフを押さえた。
父はそれ以上聞かず、ただ、女の手に自分の手を重ねる。
「隠さなくていい。君は、何も恥じることはないんだ」
女の目から、ぽろりと涙がこぼれた。
「……英雄様……」
昨夜、治療室で小瓶を両手に包んでいた女。
「来てくれて、よかったです」と言った、あの女が、うっとりと父を見上げている。
まわりで、拍手が鳴りやまない。
前の男も、隣の娘も、手を打ち、声をあげている。
その中で、リリアの両手だけが、帽子のつばを握ったまま動かなかった。
指先が、冷たかった。
(言っていることは絶対に間違ってるのに……みんな熱狂してる。これが、お父様の力)
逃げるように、壇の上へ目をやる。
オルメーヌが、ひとり立っていた。
ヴェールの下で、微笑みは少しも崩れていない。
ただ、その手首。父がつかんで掲げたところに、消えたはずの痣が、うっすらと青く浮きはじめていた。
誰も、見ていない。
「おい、英雄様よ!」
歓声の切れ目に、だみ声が割りこんだ。
人垣の中ほどで、荷運びらしい男が手を挙げている。
「じゃあ、あの包み紙の病は何なんだよ! うちのかかあが、怖がって眠れねえって言うんだ!」
広場が、すっと静まった。
壇に戻った父のもとへ、何百という目が集まる。
アロフィスは、少しも慌てなかった。
身をかがめ、足もとに落ちていた包み紙を一枚拾いあげる。それを、広場に向けて広げてみせた。
「いい質問だ! ご主人、奥さんを大事にしてるんだね」
くすくすと、笑いが漏れる。
「見てごらん。上手な絵だろう? さすがは大陸一の商会、絵描きまで雇っている」
笑いが、大きくなった。
「怖い絵で脅して、甘いお菓子で黙らせる。……さて、みんな。お菓子ひとつで、自分の仕事を手放せるかい?」
「手放せるかよ!」
「なめんじゃないよ!」
女たちの列から、次々と声が飛ぶ。
英雄は包み紙をくしゃりと丸め、肩ごしに放り投げた。
「痣なら、さっきみんなが見たとおりだ。女神様が消してくださる。……ご主人、今夜は奥さんを、ぐっすり眠らせてあげて」
荷運びの男が、照れたように頭をかく。
どっと、笑いと拍手が起きた。
リリアのすぐ前で、町の女たちがひそひそと言いかわす。
「お菓子ひとつ、ねえ。あれ、とっておけば銀貨七、八枚の値打ちがあるってさ」
「うそ、あたし、もう食べちゃった」
「銀貨もらえるのは、娼婦の列だけだしねえ」
「たった一枚もらって、大はしゃぎ。バカだね、娼婦は計算もできないんだから」
「だから、身を売るしかないんだろうさ」
くすくすと、笑いがこぼれる。
列の端では、スカーフの女が笑っていた。
隣の女と肩を叩きあい、懐から、小瓶を取りだしてみせる。
「これ、売っちゃおうかな。女神様が痣を消してくれるなら、もういらないもの」
「なにそれ?」
「薬だよ。瓶ごと売れば、いい値になるって」
もう、がまんできなかった。
リリアは帽子をむしり取り、声を張りあげた。
「その男の言うことは、嘘です!」
誰よりも大きな声が響いた。
オーラを乗せた声が、大気を震わせる。広場じゅうの顔が、いっせいに振り向いた。
「オーラ使いか……!」
「あれは、ナナ!?」
人垣の外で、傭兵たちが色めきたつ。
「本当に、放っておいたら死んでしまいます!」
ざわめきが広がる。
「痣は、目印でしかないです! 痣だけ消しても……」
背後に、傭兵が二人、回りこんでいた。
「おい! 黙れ!」
「その口を閉じろ!」
伸びてきた腕を、リリアは振り向きもせずにつかんだ。
ひねる。もう一人の膝を、靴の先で払う。
二人の男が、重なって石畳に転がった。
ひと息にも、足りなかった。
「選ぶのは、自由です! でも、父が嘘つきなのは、娘のわたしが知っています!」
広場が、しんと凍りついた。
壇の上で、父が目をすがめている。
人垣のうしろ、遠くの娘の顔を探すように。
「……リリアーヌ? いや、君はナナ、だろう?」
「あなたが女遊びばかりして、子の顔もろくに見なかったからでしょう?」
痛烈な一言。
群衆が、ざわりと揺れる。
「式典で見たフィデリア様に瓜二つだ」
「この娘さんが、リリアーヌ様?」
列の中で、女たちの顔つきが変わった。
銀貨を握った手が、ゆっくりと下りていく。
「……父親なんて、どこもおんなじだね」
「うちの親父も、外じゃいい顔してたっけ」
誰かが、乾いた声で笑った。
ささやきが、さざ波のように広がっていく。
父の顔から、はじめて笑みが消えていた。
けれど、それも一瞬。
肩をすくめ、困ったように笑ってみせる。
「みんな、落ちついて。僕の娘は、まだ十三だ。あの人は、どう見ても大人だろう?」
ささやきが、ぴたりと止まった。
「……たしかに」
「十三には、見えねえな」
広場が、ふたつに割れていく。
リリアは、まっすぐに父を見返した。
「わたしが誰かなんて、どうでもいいです! 痣が出た人は、大通りのいちばん大きな宿へ。お金はいりません!」
それから、司祭に向き直る。
「司祭様の治療だって、寄付金がいるはずです。全員、無料で治してくださるんですか?」
司祭は目を泳がせ、助けを求めるように壇の中央を見た。
アロフィスが声を張る。
「今日なら、僕が代わりに寄付をする! 安心して欲しい!」
畳みかけるリリア。
「今日だけではダメです。痣は治っても出やすくなるから。ずっと無料で診てくれますよね? 司祭様」
耐えきれなくなった司祭が声を上げる。
「信仰を金で量るとは何事か! 不信心な娘め!」
「では、無料で治療してくださるのですね?」
「無礼者! 昔から、痣消しは金貨一枚と決まっている。口にしないのが美徳、それがお前には分からないのか?」
列の女たちが、手の中の銀貨に目を落とす。
銀貨一枚で、痣ひとつ消してもらえるはずもない。
拍手が、ぴたりと止んでいた。
父の喉が、ひくりと動く。
「――黙らせろ! そいつは、ドゥルセの手先だ」
広場に響いたのは、低く濁った声。
傭兵たちはもう動いていた。
「ガキが!」
四方から、剣の鞘が鳴る。
リリアは懐に手を入れ、それを高く掲げた。陽を受けて、金属の徽章がきらめく。
「都市政府の警吏です! これ以上は、公務の妨害とみなします!」
「警吏だあ? そんなもん、どこで拾った!」
笑い声とともに、最初の剣が振りおろされた。
リリアは、半歩だけ踏みこんだ。
刃の内側に入り、手首を打つ。剣が宙を舞う。男の顎を、掌で突きあげる。
二人目。三人目。
指先から、オーラの弾がはじける。傭兵の肩が跳ね、膝が落ちる。
横から突っこんできた大男の足を払い、その背中を踏み台にして、跳ぶ。
着地と同時に、二人の鳩尾に拳を沈めた。
「こいつ、強え!」
「一斉にかかれ!」
四方から、男たちが一度に押し寄せる。 その真ん中で、リリアの体がくるりと回った。
誰も、殺さない。
骨も、折らない。
ただ、立ち上がれないようにしていく。
人垣が、割れていた。
さっきまで英雄に熱狂していた女たちが、銀貨を握ったまま、声もなく立ちつくしている。
スカーフの女が、両手で口を押さえていた。
野次馬たちの声援が飛ぶ。
「可愛いお嬢ちゃん! がんばれ!」
「傭兵ども、情けないぞ!」
壇の脇で、白い衣がひるがえった。
司祭が、誰にも気づかれないように、教会の大扉の奥へ消えていく。
十人を超えたあたりで、傭兵の足が止まった。
石畳の上には、うめく男たちが転がっている。
そのとき、広場の四方の路地から、硬い足音が響いた。
「解散せよ! 警備隊だ!」
「市民は解散せよ!」
揃いの胸当てをつけた兵たちが、まるで計っていたかのように、広場の出口をふさいでいく。
人垣が、悲鳴を上げて崩れた。
先頭の隊長が、倒れた傭兵たちを一瞥し、それから壇を見上げる。
「アロフィス・ソルゾラス。貴殿の雇った傭兵が、警吏に剣を向けた。貴殿の指示でな」
隊長の声は、静かだった。
「来てもらおうか」
ざわめきが、広場を走った。
英雄が、連れていかれる。
逃げまどう人の足のあいだで、スカーフの女が足を止めていた。
懐から、小瓶を取りだす。
しばらく見つめてから、両手で包むように、もう一度しまいこんだ。
ぎい、と重い音がした。
教会の大扉が、ゆっくりと開いていく。
金糸の縫いとりの、白い法衣をまとった老人が、階段の上に立っていた。
その左右に、鎧の騎士が二人。胸に、金の聖印が刻まれている。
うしろには、司祭が控えている。
「マルドゥク司教……。それに、聖騎士か」
隊長が、低くつぶやいた。
司教は、階段の上から兵たちを見下ろし、穏やかに微笑む。
「教会の敷地のことは、教会が尊重される……でしたな」
白い石の階段。その上に組まれた壇。
父の立つ場所は、最初から教会の敷地だった。
「アロフィス殿は、我々が預かりましょう」
隊長の顎が、わずかにこわばる。
兵たちは階段の手前で足を止めたまま、一歩も上がれなかった。
「……教会の庇護を求めるのですな。英雄殿が」
隊長の声が、広場に残っていた人々の耳に届く。
誰かが、息をのむ音がした。
父は、何も言い返さなかった。
ゆっくりと階段をのぼり、大扉の前で振り返る。
その顔には、もう、いつもの笑みが戻っていた。
「ドゥルセに雇われた冒険者ナナ。娘の名を勝手に使うのは、やめてくれ」
よく通る声が、広場いっぱいに響く。
「……リリアーヌは、僕の大切な娘なんだ」
まばらな拍手が、どこかで起きた。
大扉が、父と司教を呑みこんで、閉じていく。
リリアは、石畳の上に立ちつくしていた。
大切な娘。
屋敷にいたころ、一度も向けられたことのない言葉。
(本当に、言うことすべてが、空々しい)




