第57話 銀貨一枚
「ここで痣を診てくれるって、本当!?」
扉が、勢いよく開いた。
夜の治療室に飛びこんできたのは、まだ若い女。首にスカーフを巻きつけている。
リリアは、たたんでいた布を置いて立ちあがった。
「はい。どうぞ、こちらに」
寝台に座らせると、女は迷うようにスカーフを外した。
首に広がる、青黒い痣。
「客に、首を絞められたところ。十日経ってるのに、消えるどころか、広がって……」
黒ずくめの男が、無言で身をかがめる。
兜の額の目玉が、くるりと回って痣をとらえた。
「見た目は派手だが、初期だ。……痣のおかげとも言えるな」
「え……やだよ、こんなのあったら仕事にならない」
「気づかないまま、病が進行する方が怖いぞ」
そう言うと、リオルは棚から小瓶をひとつ取り、女の膝に置いた。
妻のセシリアが、女の隣に腰を下ろす。
「お薬はひと月、飲みきって。飲んでいるうちに、痣も自然に消えるはずよ。その間、夜のお仕事は休んでね」
「……ひと月も?」
「体に負担のない仕事を紹介するわ」
女は小瓶を両手で包んで、しばらく黙っていた。
それから、ぽつりとこぼす。
「あたしは、この仕事、嫌いじゃないんだよね。稼ぎもいいし、たまに殴られたりするけど、チヤホヤしてもらえて気持ちよくなれるし」
「そうなのね……」
「明日、広場に行くんだ」
「広場って、なんですか?」
リリアが聞き返すと、女は答えた。
「教会前の広場。英雄アロフィス様が、あたしたちのために話してくれるんだって。店がなくなって困ってる女は、みんな来いってさ」
胸の奥が、小さく跳ねた。
「行けば、銀貨一枚くれるって言うからさ。みんな行くよ。あたしの店の子も、隣の店の子も」
「父……いえ、アロフィス様は、お金で、人を集めるんですか?」
思わず口をついて出た問いに、女はきょとんとした。
「そりゃそうだよ。銀貨一枚、ただでもらえるんだもの」
女は、膝の上の小瓶に目を落とす。
「でもさ……昼に、あの包み紙もらって。自分の痣が治らないならさ、怖くなって。だから、こっちに来たんだ」
「来てくれて、よかったです」
リリアが言うと、女は少しだけ笑った。
「……広場にも、行ってもいいよね? 銀貨一枚、やっぱり惜しくて」
「立っているだけなら、負担はないはずよ。ただ、人にぶつかったりとか、気をつけて。……お大事にね」
「うん、ありがとうございました」
頭を下げて女が出ていくと、治療室に静けさが戻った。
リオルは何も言わず、空いた棚に小瓶を補充している。
「……明日、そんなことがあるんですね」
リリアのつぶやきに、セシリアは窓のほうへ目をやった。
「同じ話を聞いたのは、今夜だけで三人目。女性たちを広場に集めて、英雄が演説する。私の横暴を、市民の前で裁いてみせるつもりでしょう」
「セシリアさんは、行かないんですか?」
「顔を出したら、火に油ですもの。他にやることも多いし」
セシリアは、膝の上で組んでいた指をほどく。
「リリアちゃんはどうする? あなたの場合、お父様の様子を見られるかもしれない」
すぐには、答えられなかった。
関門で向きあった、父の顔が浮かぶ。
娘を目の前にして、気づかなかった。
(お母様も、第三夫人のゼフィーラさんも、わたしだってわかってくれたのに……)
膝の上で、指先がすうっと冷えていく。
「……行きます」
自分の声が、思ったよりもはっきりと響いた。
「お父様が、みんなの前で何を言うのか。この目で、見ておきたいです」
セシリアは、少しだけ目を細める。
「そう。なら、顔は隠していってね。あと、これを渡しておくわ」
カルテから目を上げたリオルが、ぼそっとつぶやく。
「……暴れるなら、ほどほどにな」
◇
翌日の昼。教会前広場は、人で埋まっていた。
白い石の階段の上に、大きな扉。その手前に、急ごしらえの壇が組まれている。
壇の下には、女たちが列をなしていた。派手な色の衣の者、化粧の濃い者、すり切れた外套の者。その手の中で、配られたばかりの銀貨が光る。
列の外側を、物見高い町の人々、それに傭兵たちが取り巻いていた。
「英雄様が、娼婦のために話すんだってよ」
「店を潰されたんだろ?」
「お菓子配ってる、あのドゥルセだってさ」
リリアは帽子のつばを下げ、人垣のうしろに立った。
足もとの石畳に、くしゃくしゃの包み紙が一枚。誰かに踏まれて、痣の絵が泥にまみれている。
列の端に、昨夜の女がいた。
首にスカーフを巻きつけて立っている。
ラッパが鳴る。
英雄アロフィスが、司祭と女を従え、壇の上に上がった。
広場が、わっと沸く。
(……お父様)
喉の奥が、ひくりと縮んだ。
帽子のつばを握る指に、力がこもる。
「みんな、集まってくれてありがとう!」
よく通る声。屋敷の食卓で、何度も聞いた声だった。
「外から来た金持ちが、この街の事情も知らずに、ここで生きる者たちの暮らしを踏みにじっている!」
女たちの列から、拍手が起きる。銀貨を握ったまま叩く手が、ちゃりちゃりと鳴った。
「店を奪い、職を奪い、そのうえ、根も葉もない病の噂までばらまいている。焼き菓子で人の心を買って、自分たちの横暴を正当化するためにね!」
どっと、笑いが起きた。
リリアの足もとで、包み紙が風にめくれる。
(お金で人を集めたのは、お父様のほうなのに……)
「僕は、娼婦だからと見下したりしない。必要な、尊い仕事だ。この街の誰であろうと、見捨てはしない」
歓声が、広場を揺らす。
「紹介したい人がいる」
父が振り返ると、壇の脇から、ヴェールの女が上がってきた。
亜麻色の髪が、白い首すじにこぼれる。
「店を奪われた女たちの代表、オルメーヌだ。彼女の手首にも痣がある!」
アロフィスは女の手首をつかみ、高々と掲げた。
どよめきが広がる。
「女神様の奇跡があれば、簡単に治る!」
司祭が前に出る。
手のひらをかざすと、女の手首の痣が薄くなっていき、やがて、見えなくなった。
歓声。指笛。宙に投げあげられる帽子。
その中で、リリアだけが、掲げられた白い手首を見ていた。
壇の上で、オルメーヌが微笑む。少しも崩れない、きれいな微笑みだった。




