第56話 割れた封蝋
封蝋は、すでに割られていた。
赤い蝋のかけらが、母屋の居間の卓にこぼれている。英雄アロフィス・ソルゾラスは長椅子に足を投げだし、開いた便箋を指先でつまんでいた。
「リリアーヌが、自分で届けに来たわけではないのか」
「ギルドからの配達です。預け主は銅等級の冒険者で、匿名です。旅先で頼まれた、とのことでした」
家令が、頭を下げたまま告げる。
「銅等級ねえ。匿名じゃ、どこにいるかも分からないな。……まあ、いいか」
アロフィスは便箋をひらひらと振り、家令を下がらせた。
「お母様へ。……悪い病気が、ね」
向かいの長椅子で、第二夫人レナリルが扇を閉じる。
その膝には、くしゃりと丸めた紙が一枚。
「同じ話なら、昼から町じゅうで聞けるらしいわ。ドゥルセが焼き菓子と一緒に、ばらまいてるって」
広げられた包み紙に、青黒い痣。抱きあう男女の影に、大きな✕印。
「娼館を潰した言い訳ね。慈善家のドゥルセは分かってないわ。金はあるのに、娼館を一つももたない。女を痛めつける客が多いのだから、痣なんて当たり前。気が触れる女がいるのも昔から」
レナリルは、包み紙を卓に放った。
「……それを新たな病だなんて。よくできた筋書きだこと」
「根も葉もない噂に惑わされて母親に手紙なんて、リリアーヌもまだまだ子供だね」
アロフィスは、便箋を包み紙の上に重ねて置く。
レナリルの目が、宛名の一行をなぞった。
「アロフィス、あなた娘に嫌われてるの? 宛名も母親にしかないわよ」
「一時の反抗期だろう。男親なんて、そんなものさ」
「で、その手紙、どうするつもり?」
「フィデリアを不安にさせるだけだ。彼女は怖がりだから」
「ふふ、ますます相手してもらえなくなるものね」
「……っ! そんなことないよ」
投げだしていた足が、床に下りた。
「あら、禁句だった?」
レナリルは扇を開いて、口もとを隠す。
「いや、どうも君にも誤解されているようだ」
アロフィスは便箋をつまみあげ、立ちあがった。
「フィデリアに、手紙を渡してくるよ」
◇
第一夫人の部屋。
窓辺の椅子で、フィデリアは針を動かしていた。
膝に広げているのは、淡い若草色の布。袖を落とし、裾を詰めれば、ゼフィーラが連れてきた子たちにも着られる丈になる。
かつて、自分が袖を通したドレス。
卓の上には、同じように仕立て直した服が、もう三着たたまれていた。
壁際には、侍女が二人、置物のように控えている。
「フィデリア様がわざわざ、奴隷などの服を縫わなくても……」
「いいのよ、私が好きでやっているんだから。それに、あの子たちは奴隷じゃないわ」
「……そうですか。お手伝いできなくて、申し訳ございません」
「気にしないで。あなたたちにも事情があるのでしょう」
侍女は、それきり口をつぐんだ。
扉が叩かれる。
フィデリアは針を布に留め、立ちあがった。
細く開けた扉の向こうに、夫が立っていた。
「なあ、君に渡したいものがあるんだが」
「なにかしら? 珍しいわね」
「いや、僕たちにとって大事なものだからさ。夜、二人きりの寝所で渡そうと思うんだ」
「……そういうのはいいわ。帰って」
「意地を張らないでくれ。ずっと待ってるんだ」
「あなたは、なにも待ってないわ。増え続ける女たちの世話、誰がしていると思ってるの? 四番目の夫人も見ないけど、どこにいるの?」
アロフィスは、目を逸らした。
「……リリアーヌからの手紙だ。それを渡したかった」
差しだされた便箋に、フィデリアの視線が落ちる。
割れた封蝋。
「……! ちょっと、封蝋、勝手に開けた?」
「中身を確認しないと、本物か分からないだろう」
「……最低だわ」
「最低だと? 誰が君を養ってるか、わかってるのか! 女のくせに!」
アロフィスが、一歩、前に出る。
ゴッ
「うっ!」
見えない壁に弾かれたように、アロフィスは額を押さえてのけぞった。
指から離れた便箋が、ひらりと床に落ちる。
「……また、その壁か! いい加減にしてくれ!」
「私にも、どうしようもないわ。反射的に出るんだもの」
「都合のいい反射だな! 君はずっと妻の役割を果たしていない!」
「こうなったのは、あなたのせいでしょう」
「女を囲ってたくらいで……!」
「……ごめんなさい。下がるわね。しばらく顔を見せないで」
フィデリアは身をかがめて、床の便箋を拾いあげた。
「待て!」
手を伸ばしたアロフィスの指は、なにかに跳ね返された。
「くっ……君が務めを果たすようになるまで、二度と外に出さないからな!」
扉が閉じる。
室内の侍女たちは、何も見なかった顔で立っていた。
「少し、休むわ」
「かしこまりました」
天蓋の帳を下ろす。
厚い布一枚で、部屋の灯りがやわらかく遠のいた。
寝台の上で、便箋を開く。
『お母様へ』
見慣れた、少し右に傾く文字。
しかし、見違えるほどに上達していた。
最後の一行に、指が触れる。
『リリアーヌ』
喉の奥で、息が震える。
唇を強く結び、便箋を胸に押しあてた。帳の向こうで、侍女の衣ずれが、小さく鳴る。
声は、出さない。
出さなくても、涙は止まらなかった。
しばらくして、もう一度、便箋を目の前にかざす。
『女の人たちの働くお店から、悪い病気が出はじめているそうです』
ほかには、何も書かれていない。父のことも、居場所も、会いに来たことも。
誰に読まれても困らない手紙。封蝋を割られることまで、あの子は分かっていたのだ。
「リリア、すごい……。男の人の力に頼らず、できることをやってる」
ささやきは、帳の内側にとどまった。
自分は、そうではなかった。
屋敷の奥しか知らない娘。何ひとつ、自分で決めたことがない。
だから、外の世界へ手を引いてくれる少年が、まぶしく見えた。
『名を上げて、貴族になって、君と結婚する』
大きな言葉が、大きな愛に思えた。
それが一途とは程遠いものだと、結婚してすぐに知ってしまったけれど。
『もうしばらく、旅を続けます』
娘は、誰にも人生を預けていない。
自分で歩み始めている。
「メイさんにお願いして、正解だったのね」
女の身でありながら、最高位の白金等級冒険者。
父や夫に従って生きてきた自分では、娘をこうも導けなかっただろう。
フィデリアは、自分の両手を見下ろした。
便箋をていねいにたたみ、枕の下に滑りこませる。
頬の涙を、指先でぬぐった。
――私も、できることを。




