第55話 包み紙
朝の光は、まだ窓の縁にしか届いていなかった。
床の上で、リリアは逆立ちをしている。
日課の訓練。
体を支えているのは、右手の人差し指、一本だけ。
指先に、薄くオーラを集める。揺れかけた足先が、ぴたりと止まった。
ゆっくりと息を吐く。腕も、肩も、背中も、少しも震えない。
逆さまの視界の端に、ベッドサイドの小卓が映る。
昨夜書いた手紙が、一枚、置いてあった。
『お母様へ
お元気ですか?
女の人たちの働くお店から、悪い病気が出はじめているそうです。ぶたれたり、強く掴まれたりしたところに、青黒い痣が出るのが目印です。命にかかわる病気と聞きました。
どうか、うつらないように気をつけてください。
私はもうしばらく、旅を続けます。
リリアーヌ』
逆さまに見ても、最後の名前だけは、はっきり読める。
家を出てから、自分の手でその名を書いたのは初めてだった。支えている指の腹に、インクの染みが残っている。
トントン、と扉が鳴った。
リリアは指一本で床を押し、くるりと宙で回って、両足で着地した。
「イルマです。ナナさん、起きてますか?」
扉の向こうから、落ち着いた声。
「はい!」
「焼き菓子の梱包終わりました。ギルドまでの配達、よろしくお願いします」
「すぐ行きます!」
手紙を、上着の内側にしまう。フードつきの外套を羽織って、扉を開けた。
イルマは帳面を小脇に抱えたまま、リリアの顔を見て、わずかに眉を寄せた。
「……本当に、護衛はいらないのですか?」
「はい。護衛は、他の方々につけてください。わたしは、一応、戦えますので……」
「助かります。今回の焼き菓子配布は、人海戦術なので」
宿の中庭では、ドゥルセ商会の人たちが、包みを詰めた背負い袋を肩に、次々と通りへ出ていく。
その脇に、大箱が積まれていた。ギルドへ回す分だ。
「ギルドまで、荷車、使います?」
「いえ、担ぎますので」
自分の背丈ほどに積み上げた大箱を、リリアはひょいと肩にのせた。
「……そう、でしたね」
「いってきます!」
「お気をつけて」
◇
冒険者ギルドは、朝から酒と汗の匂いがした。
フードを目深にかぶったまま、リリアは受付の前で、肩の箱の山を床に下ろす。
どすん、という音に、酒場の卓の男たちが振り返った。
受付嬢は胸元の等級章にちらりと目を向けると、少しだけフードの奥をのぞきこんだ。
「ナナさん、いらっしゃいませ」
「こんにちは。あの、手紙の預かり物です」
手紙を、カウンターに置く。
「フィデリア・ソルゾラス様へ。娘のリリアーヌさんからです」
受付嬢が、宛名を見て、ぱちりと瞬いた。
「ソルゾラスって……英雄様の、お屋敷ですか?」
「はい。旅先で、預かってきました。……わたしの名前は、伏せてもらえますか?」
「わかりました。預け主のご希望なら、お名前は出さない決まりですから。銅等級の冒険者、とだけお伝えしますね」
「ありがとうございます」
手紙が、配達物の箱に落とされる。
それだけのことなのに、肩から、すっと力が抜けた。
「それと、こちら。ドゥルセ商会からの依頼で、焼き菓子の配布をお願いしたいんです。できれば、実績のある方々に」
受付嬢はカウンターの向こうから身を乗りだして、床の箱の山と、リリアの細い肩とを見比べた。
「すごい力ですね……あっ、お荷物の中身は何でしょうか?」
「こちらです」
リリアは箱をひとつ開け、包みを取りだして手渡した。
受付嬢は包みを広げかけて、手を止める。
包み紙いっぱいに、刷られた絵。
腕に浮かぶ、青黒い痣。抱きあう男女の影に、それを打ち消す大きな✕印。その下には、横たわる人と、小さな墓標。
「な、なんだか、怖い絵ですね……」
「はい。でも、痣が出たら、あの……」
リリアは、フードの奥で目を泳がせた。
「え、えっちなこと、しちゃだめ。うつすから。……という、意味です」
二人の顔が、みるみる赤くなっていく。
「あ……そ、そういう……」
「字が読めない人にも、わかるように……」
「そ、そうですよね! わかります、すごく、わかります!」
受付嬢は包み紙を胸に押しあてて、こくこくとうなずいた。
◇
昼をすぎると、町のあちこちで、ドゥルセ菓子店の包み紙が揺れていた。
「甘いものなんて、ひさしぶりだよ」
「高価な砂糖つかってるものを、ただで配るなんてね」
「でもさ、この絵はなんだろうねえ」
井戸端では、洗濯女たちが焼き菓子をかじりながら、包み紙の絵を回し見している。路地の階段で、子供が焼き菓子をほおばりながら、風に飛んだ包み紙を追いかけていく。大袋を担いだ配達人が置いていった包みを、荷車の御者が鼻を鳴らしながら懐にしまう。
リリアは、香水通りの入口に立っていた。
大通りから折れた先、娼館の並ぶ通り。昼の光の下では、どの窓も眠ったように閉じている。
おそらく、病の流行地。
『リリアちゃんのようなオーラ使いは抵抗力が強いから、より安全だわ』
セシリアの言葉が脳裏に浮かんだ。
――ここだけは、自分が配る。
「どうぞ。ドゥルセ商会からです」
包みを差しだすと、通りかかった女たちが、物珍しそうに受け取っていく。
「お菓子ありがと。うれしいわぁ」
「あー、大袈裟だねえ。病なんて、ここじゃよくあることだよ」
包み紙を開いて、顔をしかめる者。笑って丸めて捨てる者。
ひとりの女が、足を止めた。
まだ若い。化粧を落としたままの頬に、寝不足の影がある。
包み紙を開いたまま、女はしばらく動かなかった。
それから、そっと、自分の袖をまくった。
手首の少し上に、青黒い痣。
指の形をしている。
「……これ、本当?」
女の声は、かすれていた。
「先月、死んだ姐さんも、大きな痣があったんだ。最後のほうは、おかしなことばかり言っててさ。気が触れたんだって、みんな……」
女は、自分の痣と、包み紙の絵を見比べた。
「……あれ、病気だったの? 教会には、悪魔に取り憑かれたから、治せないって言われたのに」
リリアの背すじを、冷たいものが這いのぼる。
(もう、亡くなってる人がいた……)
フードの下で、リリアは唇を引き結ぶ。
それから、女の目をまっすぐに見た。
「……早ければ治る、と聞きました」
女の目が、大きく見開かれた。
「大通りから一本入ったところの、いちばん大きな宿に行ってください」
「……そんな高い宿、あたしなんか入れてもらえないよ。お金がないんだ」
「大丈夫です。包み紙と、痣を見せれば、お金がなくても診てもらえます」
女は、包み紙を握りしめた。
一度だけ、通りの奥を振り返る。それから、大通りのほうへ歩きだす。
角を曲がる前には、小走りになっていた。
リリアは、その背中が見えなくなるまで見送った。
風が吹いて、包み紙が一枚、くるりと舞いあがる。




