第54話 痣
「横暴です! 一人の落ち度で財産を差し押さえられ、我々は営業できなくなりました! 娼婦たちの苦労をわかっていない連中のせいで!」
応接間に通されるなり、若い男がまくし立てた。
仕立てのいい上着に、強い香水の匂い。
その後ろに、帽子を握りしめた中年の男。
そして、もうひとり。
薄いヴェールをかけた女が、静かに膝を折った。
衣ずれの音さえ、計ったように小さい。ヴェールの奥に、細い顎と、紅を引いた唇がのぞく。
英雄アロフィスの目が、そこで止まった。
「まあ、落ち着いて。……君たちは?」
「香水通りの娼館、カラントの店の者です。僕は息子で、こっちは番頭。それから――」
女が、ヴェールを上げた。
白い首すじに、亜麻色の髪がひと房こぼれる。
「オルメーヌと申します。カラントの店で、看板を務めておりました」
長椅子の上で、第二夫人レナリルの扇がわずかに傾いた。
(……あの店の、稼ぎ頭ね)
顔は知らない。けれど、名は聞いたことがある。
金払いのいい客しか取らない女だと。
「父は、監察官に、ほんの少し口が過ぎただけなんです」
息子が、身を乗りだす。
「それだけで奴隷に落とされ、舌まで……。店も、蔵も、何もかも差し押さえです。いまは門に縄が張られて、誰も入れません」
声が裏返った。息子は唇を噛み、拳を膝に押しつける。
「女たちが、行き場をなくしております」
番頭が、帽子をいっそう強く握った。
「安い店に流れた子もおります。あれだけの子が、場末で、銅貨数枚で……。昨日も、泣きながら私のところへ来た子がいて……。お得意様がたも、もう別の店へ……」
声が、途中で詰まる。
アロフィスは、深くうなずいた。
うなずきながら、目はオルメーヌの首すじから離れない。
レナリルが、扇を閉じた。
「差し押さえられたなら、分配もあるでしょう? あなた方にも手当てくらいは出たんじゃないの?」
息子の肩が、ぴくりと跳ねた。
「……雀の涙です。あんなものでは、足りません。働かないと生きていけなくなる」
番頭が、床に目を落とす。
オルメーヌだけが、表情ひとつ変えなかった。
(出たみたいね。……それも、けっこうな額が)
嘘は言っていない。
これまで荒稼ぎしてきた連中にとっては、たしかに『雀の涙』に違いない。
咎める気など、さらさらなかった。
(……使える)
「それで、監察官というのは、どこの誰なの?」
「セシリア・ドゥルセです。ドゥルセ商会の」
レナリルの指が、止まった。
「店の門に、差し押さえの札が貼られていて……そこに、そう署名が」
アロフィスが、眉を上げる。
「ドゥルセの総帥が、わざわざ?」
それから、ふっと笑った。
「なるほどね。金で役職を買ったか。外の金持ちは、やることが派手だ」
レナリルは答えなかった。
閉じた扇の先を、唇に当てる。
(静かすぎたのは、そういうこと……。暗殺党まで、買い取ったのね)
奴隷市の競りが、近づいていた。
オルメーヌが、胸の前で両手を重ね、深くこうべを垂れた。
「英雄様。わたくしどもは、この身ひとつで生きてまいりました」
低く、よく通る声だった。
懇願しているのに、どこか歌うような響きがある。
「その身を置く場所を、奪われたのです。……どうか、お力を」
アロフィスが、立ちあがる。
「外から来た金持ちが、この街の事情も知らずに、ここで生きる者たちの暮らしを踏みにじる」
ゆっくりと、三人の前を歩く。
燭台の灯りが、その横顔を照らした。
「僕は、娼婦だからと見下したりしない。横暴は見過ごせない」
三人の顔が、いっせいに上がった。
「この件は、僕が預かろう。市民の生活を守ってみせる」
「あ、ありがとうございます……!」
息子が、その場にひざまずいて何度も頭を下げる。番頭は、帽子で顔を覆った。
レナリルが、扇を開く。
その陰で、口もとがかすかにゆるんでいた。
(いい台詞ね。……そのまま、教会前広場で言わせましょう)
「なら、女たちを集めなさい。店の子も、流れた子も、ぜんぶ。訴えは、数が多いほど都市政府に響くわ」
「は、はい!」
「ああ、それと」
アロフィスが、オルメーヌの前に膝をついた。
白い手を取る。その手首の内側に、青黒い痣がひとつ。
「……これは?」
「差し押さえのとき、警吏の方に掴まれまして」
「ひどいことをする」
アロフィスは、痣の上を、親指でそっと撫でた。
「君ほどの女を、場末の男どもにくれてやるのは惜しい」
オルメーヌの睫毛が、かすかに揺れた。
「君のことは、僕が引き取ろう」
レナリルの扇が、ぱちり、と音を立てて閉じた。
(……この程度の女に、手を出すなんて)
オルメーヌは、ゆっくりと顔を上げる。
客を迎えるときと同じ、完璧な微笑みだった。
「……光栄でございます、英雄様」
◇
同じ夜。市街区でいちばん格式の高い宿の、二階の奥。
客室のひとつが、治療室に変わっていた。
寝台が三つ並べられ、壁際の棚には、色の違う小瓶がずらりと並んでいる。
寝台に腰かけた若い女の腕を、リリアは両手でそっと支えていた。
二の腕に、指の形をした青黒い痣が、くっきりと浮いている。
(あの窓の人と、同じ……)
娼館の通りの、二階の窓。青黒い腕を、あのときリリアは、ただの痣だと思った。
「痛みますか?」
「ううん、ぜんぜん。掴まれたときも、そんなに強くなかったのに」
女は、首をかしげて笑った。
黒ずくめの男が、身をかがめる。
兜の額の目玉が、くるりと動いて、痣に焦点を合わせた。
「……やはりな」
セシリアの夫は、ぶっきらぼうに言った。
「血の中に、よくないものが入りこんでいる。本人に自覚はない。熱も、だるさもない。ただ、殴られたところ、掴まれたところだけが、異常な痣になる」
セシリアが、女の肩にやわらかく手を置いた。
「発見が早くてよかったわ」
「ほぼ新種の病だな。治療が遅れれば、生殖器から崩れはじめ、最後は脳に達するぞ」
女の顔から、すっと血の気が引いた。
リリアは思わず、支えていた腕に力をこめそうになって、あわてて指をゆるめる。
(……掴んだら、痣になる)
その手を、セシリアがちらりと見た。
「普通にしていればうつらないけど、念のため。私たち魔術師や、リリアちゃんのようなオーラ使いは抵抗力が強いから、より安全だわ」
リリアは、小さくうなずいた。
セシリアの夫が、棚から小瓶をひとつ取り、女の手に握らせる。
「朝晩、これを飲め。ひと月だ。一日も欠かすな」
「は、はい……」
「わかっていると思うが、薬を飲み切るまで男と寝るなよ」
セシリアが慌てて口を出す。
「ちょっと、リオル、言い方が悪いわ。……ごめんなさいね、ほかの方にうつしちゃうから。あなたに負担のないお仕事を、紹介するわ」
「だ、だいじょうぶです。……もともと、したくてしていた仕事ではなかったので。男の人も、ほんとうは怖いですし」
「そう……。部屋はとってあるから、沿岸区に移動する日まで、ゆっくり休んでね」
女は小瓶を胸に抱えて、何度も頭を下げながら出ていった。
扉が閉まる。
部屋に残ったのは、三人だけだった。
「……さっきの人で、何人目ですか?」
「今日で十一人ね」
セシリアは、寝台の端に腰を下ろした。
日傘も手袋も外したその美しい横顔に、わずかな疲れが見えた。
「差し押さえた娼館は休ませたけど……。反発も出ているわ。転職に応じない女性も少なくないの」
リリアは、カラントの店の名を思い出す。
さっきの女も、そこにいたと言っていた。
――看板の姐さんは、来ませんでした。私たちより、ずっと稼いでいたから、やめないと思います。
「それぞれの人生だ」
リオルが、小瓶の栓を締めながら言った。
「どうなろうと、他人の俺たちが無理に従わせることはできないだろう。だいたい、この病には人に示せる証がない」
セシリアは、膝の上で、指を一本ずつ組みあわせる。
「証明は無理なのね? あなたでも」
「ああ。魔法と迷信の入り混じるこの大陸に、医術を理解する土壌はない。……ただの流行病として、死んでいくだけだ」
リリアの声が、震えた。
「あ、あの……。流行るって、みんな、罹ってしまうのでしょうか? 実家にいる母も、心配です」
セシリアが、困ったように首をかしげる。
「病にかかった人と、いわゆる愛の営みをしなければ、大丈夫なのだけど」
「愛の、営みって……?」
「ええとね、男の人と女の人がすることで、娼館はそういうことをする場所なの」
「あの、娼館って、男の人と女の人が一緒にお酒を飲む場所ですよね……?」
セシリアとリオルが、目を見合わせた。
「……セシリア。少し、教えてやってくれ」
「そうね……。こんな可愛い子が知らないのは、危ないもの」
「えっ? ……わたし、何か間違ってました?」
リオルは小瓶を棚に戻すと、扉へ向かう。
「俺は、ノエルを寝かしつけてくる」
扉が閉まった。
セシリアが、寝台の隣をぽんと叩く。
「リリアちゃん、ここに座って。……女同士の、大事なお話よ」




