第53話 奴隷じゃないよ
英雄アロフィス・ソルゾラスの屋敷。
その敷地の隅に建つ、離れ。
一階の廊下を、第三夫人ゼフィーラは荷物を抱えて行き来していた。
袖をまくった腕は、引き締まった小麦色。丸めた寝具の束をひょいと肩に担ぐたび、しなやかな筋がすっと浮く。
同じように立ち働くのは、五十人の女子供たち。
「こっちの部屋、使えるようになったね。ちと、狭いけど」
「い、いえ! 十分です……」
女たちは恐縮して頭を下げる。
ここ数日、寝具が足りていない。新しい服も回ってこない。
そこへ、使用人たちを引き連れて、第二夫人レナリルが現れた。
角度によって紫のにじむ黒髪を、ゆるく結いあげている。深く開いた襟もとから、白い肌と、熟れた身体の線がのぞく。
閉じた扇を指先でもてあそびながら、目だけは少しも笑っていない。
使用人たちの腕には、畳んだ古いカーテンや、端切れの布。
「ご注文の品を持ってきたわ」
「ああ、悪いね」
「奴隷に使えるものなんて、これくらいしかないけど、いいわよね?」
「奴隷じゃないよ。……持ってきてくれたことには、感謝する」
しばらく黙っていたレナリルが、閉じた扇を唇に当てる。
「アロフィス、機嫌悪いわよ。……男の気持ちもわからない女に、妙な約束をさせられたせいかしら」
「ふん、男の気持ちより、男に媚びるばかりの女の気持ちのほうが、あたしにはわからないね」
「……あなた、計算もできないのかしら? この女たち、娼婦か下女のほかに使い道はないわよ。下女だって、こんなにいらないし、足も擦り切れて汚いわ」
「収容所から歩かされてきたんだから、汚いのは当たり前だろ? それに、アロフィスはこの子たちを養うって言ったんだ。あんたは言いつけを守ればいい」
「……誰が資金繰りを仕切ってると思ってるのかしらね。お風呂も汚れるから、使わせないでちょうだい」
レナリルは扇を開いて顔を隠すと、ふいと母屋へ戻っていく。
布を置いた使用人たちも、あとに続いた。
ゼフィーラはカーテンの束を抱えあげ、女たちを呼び寄せる。
「今夜から、これで少しは温かくなるよ。みんなで切り分けて、縫おうか」
「ゼフィーラ!」
侍女を引き連れた第一夫人フィデリアが、廊下の向こうから駆け寄ってくる。
黒茶の髪に、黒茶の大きな瞳。やわらかな顔立ち。
日の当たらない奥の部屋で暮らしてきた肌は、透けるほどに白い。
「フィデリア! やっと会えた!」
カーテンの束を床に置き、ゼフィーラは両腕を広げた。二人は、きつく抱きあう。
「ごめんなさい! あなたが戻ってきたの、今日まで知らなかったの」
「ああ、仕方ないよ。あたし、今回は招かざる客みたいだから」
「そんなことないわ。私は、嬉しいもの」
フィデリアは身体を離すと、廊下に並ぶ女たちへ目を向けた。
擦り切れた足もと。大きなかさぶたを作っている者は少なくない。
「……ひどい。ずっと、歩かされてきたのね」
フィデリアは袖をまくり、いちばん近くにいた少女の前に膝をつく。
「足を、見せてくれる?」
「え、あ、あの……奥様の手が、汚れます」
「いいのよ。昔は、もっとひどい傷ばかり診ていたもの」
白い掌が、少女の足首を包む。
やわらかな光がにじみ、裂けた踵の皮膚が、ゆっくりとふさがっていく。
「……痛く、ない」
少女が、目をまるくした。
廊下のあちこちから、女たちが身を乗りだす。
「順番にね。みんな、診てあげるから」
ゼフィーラは、その横顔をそっと見る。
屋敷の奥にこもりきりだった人が、こんなにも生き生きと手を動かしている。
何人目かの手当てを終えたところで、ゼフィーラはフィデリアの隣にしゃがみこんだ。
声を落とす。
「ねえ、聞きたいことがある。……あんたの娘、リリアーヌのことなんだけど」
フィデリアの手が、一瞬だけ止まる。
何事もなかったように光をともしなおし、ほんのわずか、首を横に振った。
唇だけが、かすかに動く。
「……アロフィスがつけた、見張りがいるわ」
視線の先に、廊下の入口。
フィデリアが連れてきた侍女たち。そろってこちらに目を向け、耳をそばだてている。
(前は気づかなかったけど、フィデリアは見張られてるんだね。……あたしも、きっと同じだ)
二人は、目を合わせた。
「……あの子、元気にしてるといいね」
「ええ。きっと、元気よ」
フィデリアは、手当ての手を止めずに微笑む。
その目もとが、ほんの少しだけ、ゆるんでいた。
◇
その夜。母屋の居間。
「アロフィス、フィデリア様があの女の離れに行ってしまったわ。私と入れ違いに、入られてしまったの」
長椅子の向かいで、レナリルが扇をたたむ。
「仕方ないだろう。さすがに隠しきれない」
「どうするの? あの奴隷たち、ほんとうにただの金食い虫よ?」
「もうすぐ奴隷市で収益が入る。なにも心配いらないよ」
アロフィスは、面倒くさそうに足を投げ出した。
扉が叩かれ、家令が入ってくる。主人のそばへ寄り、声をひそめた。
「……監察官に店を潰された者たちが、旦那様にお目通りをと」
アロフィスの目が、見ひらかれる。
「監察官? そんな話、初めてだが……。なにか聞いてるか?」
首をかしげるレナリル。
「いいえ。昨日も今日も、諜報からの連絡はなにもないわ。珍しいくらい……」
言いかけて、レナリルの扇が止まる。
「いえ、静かすぎる。……離れの騒ぎに気を取られているうちに、見落としたかもしれない」
「ふむ、聞くしかないか。通せ」




