第52話 着任
棍棒が、女の背中に振り下ろされる。
澄んだ音が響いた。
パリン
(え? なんの音?)
女の背から、細かなきらめきが散る。陽を受けて、ひとつひとつが小さく光り、地面に落ちる前に消えていく。
(……氷?)
リリアの頬を、ひやりとした空気がなでた。
ドゥルセ菓子店で、ケーキの皿にかかっていたのと、同じ冷たさ。
はっと横を見ると、表情を消したセシリアが、日傘を持った手の人差し指を、女に向けて伸ばしていた。
その指先に、白い霧のようなものが揺らめく。
番人は、怪訝な顔で棍棒を見下ろしている。
女は、打たれた背中に手を当てた。それから、不思議そうに掌を見る。
「何をしてる! もっと強く打て!」
香水の男が、柵の外から怒鳴った。
「その女、服の下に何か仕込んでるぞ。顔をやれ!」
番人が、舌打ちをして棍棒を振りかぶる。
二発目。頬で、パリン。
三発目。頭で、パリン。
そのたびに、きらめきが散って消える。女は身をすくめたまま、きょとんと番人を見上げていた。
リリアの手首から、手袋の指がするりと離れた。
「あらあら」
セシリアが、日傘を手に、柵のほうへ歩いていく。
「暴力はよくないですわ。……三度、たしかに殴りましたね?」
香水の男が、ヴェールの奥をじろりと見た。
「どこの偽善者か知らんが、すっこんでろ。野次馬が他人の商いに口を出すんじゃねえ」
番人も振り返り、柵越しに棍棒の先をセシリアに向ける。
「なんだ、お前は」
「商品に手を出すのは違法です。罰則は、なんだったかしら?」
「だから、お前はなんだと聞いてる!」
イルマが前に出た。鞄から一枚の書きつけを出し、番人の鼻先に示す。
大門で、門衛に見せたのと同じ紙。
番人の顔から、血の気が引いていく。
「都市政府の……外部監察官……!?」
柵の外で笑っていた男たちが、目をそらして離れていく。
香水の男が、後ずさった。
「監察なんか形式だけだろうが……本物が来るわけ……」
「では、順番に参りましょうか」
セシリアの目が、番人の手もとへ落ちる。握りしめた拳の隙間から、銀貨の縁がのぞいていた。
「監察官の目の前で、賄賂を受け取った者は? 渡した者は、どうなりますの?」
「し、市民権、剥奪……です」
「そう。財産没収の上、奴隷よね」
セシリアは、日傘の先で、番人と香水の男を順に指した。
「つまり、銀貨が手から手へ渡ったときから、お二人とも奴隷ですわ。……イルマ。奴隷が、他人の財産に手を上げた場合は?」
「手首の切断です」
イルマが、帳面から目も上げずに答える。
番人の手から、棍棒が落ちた。
「そ、そんな、奴隷を殴っただけで……!」
「ええ。自由都市の法は、あなたがた奴隷にとって、とても非情なものですわね」
香水の男が、セシリアに詰め寄った。額に汗が浮かび、甘ったるい匂いが、いっそう濃くなる。
「ふざけるな、誰の愛人だ? 俺がお前の旦那ごと潰してやる! 監察官? どうせ、そんなの偽物――」
「イルマ。奴隷が、権力者を罵った場合は?」
「舌の切断です」
男の口が、半ばひらいたまま止まった。
「な、なんだって!」
「ごめんなさいね。監察官として初仕事だから、手抜きできないの」
イルマが、市場の入口のほうへ片手を上げた。
待っていたように、黒い外套の男が二人、警備兵の一団を連れて歩いてくる。警吏だった。
香水の男は膝から崩れ落ちる。
「ほ、本物……? ばかな……」
警吏はセシリアの前で足を止め、深く一礼した。
「では、警吏の皆さん。男性奴隷、二人追加です。現行犯での暴行、監察官への冒涜。即時執行してください」
「はっ」
警吏の合図で、警備兵たちが開いたままの柵の扉から踏みこみ、番人の腕を取った。香水の男も、外で取り押さえられる。
「や、やめてくれ! なにかの間違いだ!」
「俺は頼まれたからやっただけ……うっ」
男たちはあっという間に地面に組み伏せられた。
「イルマ、この者たちの財産没収を。……最速で、分配まで済ませましょう」
「かしこまりました」
イルマが帳面を開き、さらさらとペンを走らせる。
セシリアが、ふと振り返った。
「リリアちゃん。そのお嬢さんを、起こしてさしあげて」
「は、はい!」
リリアは、女のそばに膝をついた。
肩を支えると、肌がまだ、ひんやりと冷たい。
「大丈夫ですか?」
「は、はい。当たったはずなのに……痛く、なかった」
女が、かすれた声でつぶやいた。
セシリアが日傘をくるりと回しながら、警備兵たちに声をかける。
「これから十日ほど、私が着任している間は、粛々と役割を果たすようにしてくださいまし」
すでに男二人は服を剥ぎ取られ、奴隷の焼き印を押されている。
「うがあああ」
「ぎゃあああ!」
リリアは、そこから目を離せなかった。
焼き印なんて、初めて見た。
肉の焼ける匂いが、風に乗って届く。
ごくり、と喉が動いた。
番人の右手首が、台に押さえつけられる。斧が、落ちた。
香水の男の口に、ナイフが差しこまれる。叫び声は、途中から言葉にならなくなった。
警備兵たちは顔を青くし、そして、背筋を伸ばした。
◇
市街区でいちばん格式の高い宿は、大通りから一本入った静かな通りにあった。
玄関をくぐって、リリアは目をみはった。
広間に、客の姿がない。かわりに、長卓がいくつも並べられ、帳簿と地図が山と積まれている。紺の上着の人たちが行き交い、伝令らしい少年が、書きつけを抱えて階段を駆けおりていく。
いくつかの顔には、見覚えがあった。沿岸区の再開発の現場で、イルマと一緒に働いていた人たちだ。
「この宿、まるごとお借りしているの」
セシリアが、こともなげに言う。
広間の奥の小部屋から、仕立てのいい外套の男が出てきた。指輪を光らせた、恰幅のいい商人。
セシリアの姿を見るなり、男は深々と頭を下げ、逃げるように玄関を出ていった。
紺の上着の女が駆け寄ってきて、イルマに書類の束を手渡す。
「お帰りなさいませ。いまの方で、商人連合は七家目のご署名です」
イルマが、帳面に印をつける。
階段の踊り場では、地味な男がひとり、壁際に立っていた。目が合う前に、男は軽く会釈して、裏口のほうへ消えていく。
昼間、建物の陰で契約の挨拶をした、護衛の男だった。
(……最初から、ぜんぶ用意してあったんだ)
鍛冶屋も、両替商も、門衛も。
護衛から、警吏まで。
今日、何もかもが順調だったのは、たまたまではなかった。
最上階の廊下の突き当たり。セシリアの部屋の前で、リリアは足を止めた。
扉が、細く開いている。
中から、赤ん坊の声がした。
きゃっきゃっと、楽しそうに笑う声。
リリアは、そっと隙間をのぞきこんだ。
窓際の机に、黒ずくめの男が座っている。
頭には、ねじれた二本の角と、額に大きな目玉をひとつ据えた、黒い兜。
片手で書き物をしながら、もう片方の腕に、金色の髪の赤ん坊を抱いていた。
(あの人……ドゥルセのお店にいた……!)
ロッタは「ただの変な人」と言っていた。
けれど、どうして、その変な人が、ここに。セシリアの娘を抱いて。
リリアは、くるりと振り返った。セシリアの袖を、ぎゅっとつかむ。
「セシリアさん……! 娘さんが、あのヘンな人に捕まっています……」
思わず、奥様と呼ぶのを忘れていた。
セシリアが、扉の隙間をのぞく。
それから、ゆっくりと、こめかみに指を当てた。
「……ええと、ごめんなさいね。あの人、夫なの……」
「…………え?」
部屋の中で、赤ん坊が小さな手を伸ばし、兜の角をつかんだ。
ぐい、と引っぱる。角が、すぽんと抜けた。
男はペンを置き、抜けた角を拾い上げた。
「引っぱるな、ノエル。受信機だ」
ぶっきらぼうに言って、角を兜に差しなおす。赤ん坊は、また笑った。
「じゅしんき……?」
「遠くの声を拾うのですって。額の目玉も、暗いところがよく見えるそうよ」
セシリアは、小さくため息をついた。
「……兜の形は、あの人の趣味なの」
額の目玉が、くるりとこちらを向いた。
(……ロッタに、なんて言おう)




