第49話 反抗期
西の空が、赤く焼けている。
隊が収容所を発つまで、ゼフィーラは板壁の陰から動けなかった。
出発の間際に交わされた声が、まだ耳に残っている。
『アロフィス様、ゼフィーラ様がお戻りになっていません』
『んー、彼女は自由人だからね。前にも、家出して行ったくらいだし』
『待ちますか?』
『いや、彼女の追跡力があれば、すぐに追いついてくるさ。もし、夜に間に合わなくても、新しい奴隷たちがいるから』
そう言って、アロフィスは顎で示した。自分が選んだ女たちの乗る、幌のついた馬車を。
『承知しました。では、出発いたします』
それから半日。距離を置いて、隊のあとをつけてきた。
街道が、二つに分かれる場所。
古い道標には、片側に自由都市、もう片側に神聖国と刻まれている。
馬を降りて、地面に膝をつく。
荷車の轍は、自由都市のほうへ続いている。
その手前で、無数の足跡が、別の道へ折れていた。
裸足の跡。すり減った靴の跡。片足を引きずる、年寄りの跡。
そのあいだを、縄が地面をこすった筋が、途切れずに走っている。
両脇には、傭兵の馬の蹄の跡。
足跡はすべて、神聖国の道へ吸いこまれている。
(家族と一緒に暮らせるように、だって?)
立ち上がり、馬の首筋をなでる。指先が、まだ少し冷たい。
両手で、自分の頬を一度だけ叩く。乾いた音が、夕暮れの街道に吸いこまれていく。
(普段の顔で、戻るだけ)
鞍にまたがり、轍の続くほうへ馬を向ける。
野営地は、街道から少し外れた草地にあった。
焚き火がいくつも上がり、傭兵たちが鍋をかけ、馬の鞍を下ろしている。
女たちは並べられた荷車の上で身を寄せ合っている。
幌の陰で、傭兵から水を受け取る女たちの顔。
アロフィスが選んでいた女たちは、概ね、似たタイプだ。
色白の肌に、黒茶の髪。黒茶の、大きな瞳。少し丸みのある、優しい顔立ち。
第一夫人フィデリアを思わせる女を、選んでいる。
(相変わらず、好みがわかりやすいね)
いつもの軽口を、胸の内でつぶやいてみる。
口の端は、少しも上がらない。
「ゼフィーラ!」
焚き火の輪から、アロフィスが立ち上がって駆けてくる。
鞍から降りた彼女の両肩に、そっと手を置く。大きくて、温かい手。
「怪我はないかい? 半日も戻らないから、心配したよ」
眉を寄せた、妻を案じる顔。
幼少時から男勝りに強く、心配されることのなかったゼフィーラは、この顔に弱かった。
「平気だよ。これくらい」
「それで、追っていたやつは?」
ゼフィーラは、一拍、黙る。
「……逃げられた」
「君が?」
「煙玉を使われてさ。目も耳も、しばらく利かなくて。そのあと、ずっと探してたんだけど」
「顔は見たのかい」
「……いや。布で隠してたから、見えなかった」
手綱を握った手のひらが、じっとりと湿っている。
背後で、馬が落ち着かなげに蹄を踏みかえる。
答えてから、視線が足もとに落ちていることに気づく。慌てて顔を上げ、手綱を握りなおす。
夫に、嘘をついた。
「そうか。君から逃げきるとは、よほどの手練れだね」
アロフィスは、それ以上なにも聞かない。
笑顔のまま、肩から手を離していく。
「……男の人たちは?」
ゼフィーラは、来た道を振り返る。
夕闇の向こうに、もう分かれ道は見えない。
「ああ、先に町へ送ったよ。あとで、家族と一緒に暮らせるようにする」
同じ声。同じ笑顔。
(ああ、あたしにも、嘘をつくんだ)
分かれ道の土に残っていた、男たちの裸足の足跡。
それが、まぶたの裏から消えない。
「……そう」
それしか、言えない。
「ねえ、ゼフィーラ」
アロフィスが、声をやわらげる。
肩から離れた手が、今度は彼女の手を取る。
「いま、大変な時期なんだ。悪い噂を立てられ、沿岸区も横暴な貴族に抑えられてね。君が屋敷に戻ってくれると、とても助かる」
咄嗟に断ろうとした。
だけど。
『……奴隷の人たちを守ってください。あの男、アロフィスから』
リリアーヌの作り笑いが脳裏に浮かぶ。
「……浮気をやめてくれるなら、戻っていいよ」
「あはは、わかった。もう、しないから」
四人目の妻を迎えると告げられた日と、同じ笑い声。
「……あとさ、リリアーヌにも会わせてくれる?」
アロフィスが、気まずそうに目を逸らした。
「いや……彼女は、反抗期なのか。しばらく前に、家出したきりなんだよ」
(……やっぱり……あの娘はリリアーヌだ)
ゼフィーラの唇が、かすかに震える。
アロフィスは、焚き火のほうを見たままでいる。
心配だ、とも。探している、とも。その先は、続かない。
「わかった。……びっくりしたけど、仕方ないね。帰るよ、屋敷に」
「ありがとう。君がいてくれると、心強い」
握られた手に、軽く力がこもる。
アロフィスの目が、ゼフィーラの身体をなぞっていく。
日に灼けた首筋から、革鎧に締めつけられた腰へ。鍛えられた脚へ。
焚き火の明かりを受けて、小麦色の肌が艶を帯びる。
「屋敷には戻るけど、寝室には入れないからね。あんたのことは、まだ許してないから」
「はは……手厳しいな」
アロフィスは肩をすくめる。
「それと、帰りの道中は、あたしが女の子たちにつく。いいよね?」
「もちろん。君なら安心だ」
手が離れる。
アロフィスは、焚き火の輪へ戻っていく。
夜が更けていく。
女たちの眠る荷車は、焚き火から離れた草地に並べて停められている。
ゼフィーラは、そのあいだに腰を下ろしている。
むき出しの荷台では、女たちが一枚の毛布を分け合い、肩を寄せて眠っている。
足首には、杭につながれていた縄の痕が、赤く残る。
焚き火が熾火に変わるころ。
草を踏む音が、ゼフィーラの耳に届く。
ひとつ。ふたつ。……四つ。
忍ばせているつもりの足音が、四方から荷車へ寄ってくる。
(来たね)
ゼフィーラは、目を閉じたまま動かない。
「……見張りは?」
「ゼフィーラ様なら寝てる。昼間から馬を走らせてたからな」
「アロフィス様が選ばなかった女どもなら、誰も文句は言わねえだろ」
荷台の縁に、男の手がかかる。
女の腕を捕らえようとする。
その手首を、闇の中から伸びた手がつかむ。
ひねる。
男の身体が宙で半回転し、背中から地面に叩きつけられる。
「なっ……!」
二人目が振り向くより早く、その喉もとに肘が入る。
三人目が、腰の短剣に手をやる。抜く前に、その手を膝で蹴り上げる。短剣が、草むらへ消えていく。
四人目は、背を向けて逃げだした。
ゼフィーラは足もとの石をひとつ拾い、闇へ放る。
鈍い音。それきり、足音は途絶える。
荷台の上で、女たちが毛布の陰から目を丸くしている。
「……起こしちゃったね。もう少し、寝てな」
ゼフィーラは、荷車に積まれていた縄束をほどく。
うめく傭兵たちを一人ずつ数珠つなぎにして、そばの木にくくりつけていく。
物音に気づいた傭兵が数人、焚き火のほうから顔を出す。
木につながれた仲間を見て、息をのむ。
「あれが、金等級……」
誰も、それ以上は近づいてこない。
深夜。
幌馬車のほうへ、もうひとつ足音が近づいてくる。
聞き慣れた、歩幅。
「あ、まだ起きてたんだね?」
「ああ、女たちに手を出す不届き者がいないか、見張ってないとね」
ゼフィーラは、木につながれた男たちへ顎をしゃくる。
「……あはは、そうだね」
「あんたは、なんか用?」
「いや、君を誘いに……」
「……あんたとは寝ないって言ったよ。それに見張りがある。一緒に見張ってくれるかい?」
「ああ、僕は……君の隣にいて、手を出せないなんて我慢できそうにない。寝るよ」
「……わかった。おやすみ」
ゼフィーラが別れを告げた瞬間、アロフィスがその腕をつかみ、顔を寄せてくる。
ゴンっ。
「痛っ!」
ゼフィーラの額が、アロフィスの鼻にめりこむ。
ぽたり、と鼻から血が落ちる。
「いきなりキスしようとしないで。それに、あたしのファーストキス奪ったときより、動きがだいぶ遅い。鍛えてないね?」
「あ、ああ……。いたた……。まさか、頭突きされるとは……」
「早く行きな」
「……ああ、おやすみ」
鼻を押さえながらも、アロフィスの目は笑っていなかった。
足音が、焚き火のほうへ遠ざかっていく。
ゼフィーラは、ふうっと息を吐く。頭突きをした額が、まだじんと熱い。
「……お姉さん」
むき出しの荷台から、小さな声。
毛布の陰から、あの少女が顔を出している。荷台の縁をつかむ指先が、白い。頬には、乾いた泥の筋。
「起きてたの?」
「……ずっと、見てました」
少女の目が、闇の中できらきらと光っている。
「お姉さん、強いんですね」
「……まあね」
「あの」
少女の声が、小さくなる。
「お父さんとお兄ちゃんに、すぐ会えますよね?」
ゼフィーラは、口をひらきかけて、閉じる。
夫には、嘘をつける。
あいつ自身が、嘘つきだから。
この子には、つけない。
暗い街道の向こうを見やる。
分かれ道のはるか先には神聖国。
「……すぐには、無理かもしれない」
少女の目が、大きく揺れる。
ゼフィーラは、荷台の縁をつかむその小さな手に、自分の手を重ねた。
「でも、会わせる。あたしが」
ゼフィーラの口の端が、ようやく、にっと上がった。




