第4話 フィッシュフライ
テーブルの上のスプーンが、かたりと小さく揺れた。
「ほらほら、波が落ち着いているうちに、お食べ。熱いから、気をつけてな」
老婆はテキパキと料理を並べていく。
波が床下を叩く音が絶えず響いている。窓からは、夕焼けに染まった港の景色が、ゆっくりと右へ左へ流れていた。
木の皿には黄金色に揚がった魚と、焼きたての黒パン。それに湯気の立つ野菜の煮込みまで並んでいる。
皿の縁で、スープがとぷんと小さく揺れた。
「いただきます」
揚げたてのフィッシュフライを口に運ぶ。
「はふっ……! あ、熱っ!」
「だから言ったろ」
「す、すみません。いい匂いだったので……」
湯気を吹いて、もう一度。
「はふ……っ、あつ」
「あっはっは! 若いねぇ」
三度目でようやく噛みしめると、衣の内側から熱い身がほろりとほどけた。
「すごく……美味しいです」
黒パンをちぎってスープに浸す。手が止まらない。
気づけば、皿が半分空になっていた。
「よく食べるねえ。見てて気持ちいいよ」
「あっ……」
リリアはフォークを置き、背筋を伸ばした。
「くくっ、褒めたんだよ。気にしなさんな」
老婆は肩を揺らして笑っている。
ふと、視線が壁際へ吸い寄せられた。
華やかなドレス。宝石のついた装飾品。使い込まれた剣や槍。夕日を浴びて静かに輝く、白銀の甲冑。
「あの、あれは……」
「あぁ、常連客の私物さね。他にも、あたしにって置いてったものが色々あるよ」
「置いていった、って……高価なものが、たくさん……」
「みんな、ここを出るときに置いてくのさ」
老婆は甲冑の方を顎でしゃくった。
「あれの持ち主はね、冒険者してるよ」
リリアの手が止まる。
「冒険者……?」
「あぁ、忙しい子だけど、たまに来るんだ。こいつを食べにね」
老婆はフィッシュフライをフォークで刺した。
外はもう薄暗い。
窓の外を、小さな漁船のランプがゆっくりと横切っていく。部屋の壁に、その灯りが淡く揺れて映った。
「しかし、あんた見かけによらず力持ちだねぇ。鍛えてるのかい?」
「えっと……趣味で、鍛錬を」
「そりゃまた、大した趣味だねえ。おかげで助かったよ。危うく、沖で晩飯にするところだった」
そう言って豪快に笑う。
リリアもつられて笑みをこぼした。
港へ戻る人々の足音を聞きながら、老婆が何気なくリリアの身なりへ目を向ける。
「……そういや、あんた」
「はい?」
「その格好、旅支度だね」
はっとするリリア。
「あ、わかります……?」
「今夜の宿、まだ決まってないのかい?」
少しだけ困ったように笑って、リリアは頷いた。
「実は……どこも泊めてもらえなくて」
「だろうさ」
老婆は驚きもせず、皿を片付けながら言った。
「女一人じゃ、この街の宿はどこも渋る。あんたみたいに若い子なら尚更さ」
スプーンを流しに置きながら、独り言のように続ける。
「うちは、そういう子ばかり泊めてきたからね。今更、驚きゃしないよ」
「そういう子……って?」
「家から逃げてきた子、奴隷商に売られそうになった子」
――わたしも、逃げてきた。
リリアは、そっと膝の上で手を握った。
「今夜はここに泊まっていきな。代わりに、明日の朝は掃除でも手伝っとくれ」
「あ、あのっ……!」
リリアは立ち上がり、革袋を取り出した。
「宿代、払わせてください」
「いらないよ」
「でも」
「あんたね」
老婆が振り返る。
「ロープ一本、体張って助けてくれた子から金を取るつもりはないよ」
それから急に真顔になった。
「どんな理由でもさ、真夜中に女一人でうろついてたら、男に襲われるか、人買いに攫われるか、よくて衛兵にしょっ引かれるだけだよ」
ごくりと、リリアの喉が鳴った。
「……じゃあ、掃除だけじゃなくて、他にも手伝わせてください」
「好きにしな」
「ありがとうございます」
深く頭を下げると、老婆はひらひらと手を振った。
「さ、冷めないうちに食べちまいな」
リリアは頷き、もう一度手を伸ばした。
ぎい、と家全体が一度大きく傾ぎ、また静かに元へ戻る。波が、遠くの大きな船の航跡を運んできたのだろう。
窓の外、桟橋の杭に結ばれたばかりの真新しいロープが、夜風に小さく軋む。
手が、止まった。
「……おばあさん」
「なんだい」
「誰か、来ます」
老婆の眉が、わずかに動いた。
「あんたはここにいな」
――呼び鈴が鳴った。
扉を開けると、一枚の紙を手にした男たちが立っていた。
「婆さん、この娘を見なかったか」
差し出された人相書きには、丁寧な筆致でリリアの顔立ちが描かれている。
依頼主の名は記されていない。
ただ、報酬額の欄だけが、目を引くほど大きな数字で埋まっていた。




