第43話 お菓子の妖精
灯りが消えた。
取り壊しの進む貧民街、最後に残った一角。その屋根の上に、ナナは伏せていた。
真下の部屋から、いびきが聞こえはじめる。ひとつ、少し遅れて、もうひとつ。
遠くでは、男の怒号、女の吐息も聞こえてくる。
(壁も天井も穴だらけ……。声が筒抜けだよ)
ナナは、なおしばらく屋根に伏せていた。
夜風が、洗濯物を揺らす。
屋根の端から、二階と二階をつなぐ板へ足を下ろす。きしまないよう、梁の上だけを踏んでいく。
路地の奥は、昼よりもさらに暗い。
目は、ほとんど役に立たない。代わりに、耳と鼻がひらいていく。
酒の匂い。汗と、湿った藁。どこかで焦げついた鍋。
寝息が、いくつも重なっている。
(狭い一角に、人がぎっしり住んでる……?)
昼間、窓から見下ろしてきたのは、女ばかりだった。
けれど寝息の中に、ずっと細くて速いものが混じっている。
子供の寝息。
それも、ひと部屋やふた部屋ではない。
奥の一軒。戸板の隙間から、小さな灯りが漏れていた。
ナナは軒下に身を寄せ、隙間に目を当てる。
狭い部屋に、子供が五人、藁の上に転がるように眠っている。
その真ん中に、十歳くらいの女の子がひとり、座っていた。膝の上に、まだ歩けるかどうかという小さな子を抱いて、背中をとん、とん、と叩いている。
女の子のまぶたも、何度も落ちかけては持ち上がる。
膝の上の子が、ぐずりはじめた。
女の子が、あわてて揺する。
「しーっ、しーっ……。いい子だから」
間に合わなかった。
小さな子が、火がついたように泣きだす。
隣の戸が、乱暴にひらく音。
足音が近づき、部屋の戸板が引き開けられた。
「うるさいって、何度言ったらわかるんだい!」
髪を振り乱した女だった。寝間着の胸もとがはだけ、酒の匂いがナナのところまで流れてくる。
女が、泣く子に向かって手を振り上げる。
女の子が、覆いかぶさった。
「やめて、お母さん!」
乾いた音。
女の子の頬が、横にはじかれる。それでも、小さな子を抱えた腕は離れない。
「どきな!」
もう一度、手が上がる。
ナナの指先に、オーラが集まる。
弾いた。
不可視の弾丸が飛んでいく。
手は、振り下ろされなかった。
女は白目をむいて膝から崩れ、戸板にもたれるように床へ沈んでいく。
泣き声が、ぴたりと止まる。
女の子が、目をまんまるにして倒れた女を見ている。
それから、ゆっくりと、戸板の隙間のほうへ顔を向けた。
(……やっちゃった。離れよう)
ナナは軒下を離れ、板の上へ跳んだ。
背中で、また小さな子が泣きだす。今度は、誰も怒鳴りに来なかった。
◇
日付の変わった深夜。閉店後のドゥルセ菓子店は、昼の賑わいが嘘のように静かだった。
卓の上には、紅茶と、湯気の立つコーヒーがひとつずつ。
ナナの向かいで、イルマがコーヒーに口をつける。
「明日、動きがあるようです」
「……早いですね」
ナナは、屋根の上で聞いたことを順に話した。
売り先の名前に、英雄アロフィスを出したところで、イルマの眉がわずかに動く。
路地の奥の寝息の数。子供のいる部屋。振り上げられた手。
そこで、ナナは言葉を切った。
「……それで、その。やっちゃいました」
「やっちゃった?」
「指で弾いて、気絶させてしまって」
イルマは、カップを持ったまま、少しだけ考える。
「酔った女の人が、夜中にひとり倒れた。それだけのことですね」
「……はい」
「目を覚ましても、飲みすぎたと思うだけでしょう。報告、ありがとう」
ナナは、ほっと息をついた。
紅茶の水面に、目を落とす。
「誰を救出すべきか複雑です……」
「そう、複雑なんです」
「女だから、全員、助けるべきかと言えば、そうじゃないかも」
「ええ、正直、自分の子供にすら興味のない親は一定数います。中には食事を与えず、暴力を振るう親も」
(イルマさんのいう通りだ。わたしのお父様も女の人にしか興味ないもの)
ナナは顔を上げた。
「……お腹を空かせた子に、なにかあげてもいいですか?」
「ええ、騒ぎにならない状況なら構いません。ここに、ちょうどいいものが……」
◇
翌晩も、ナナは屋根の上にいた。
真下の部屋は、昨夜よりも声が多い。荷車の数、馬の手配、出る刻限。
「収容所までは半日歩く。女どもには、新しい奉公先だとでも言っとけ」
「今回が、最後ですかね。収容所も、もう一杯です」
「ああ。このスラムを捨てるからな。明日、ここからすべて持ち出して、在庫まとめて売りさばく」
それきり、話は荷車のことに戻っていく。
(収容所……)
売られる人たちを、まとめて閉じこめておく場所。
その場所だけは、最後まで口にされなかった。
灯りが消えるのを待って、ナナはまた奥の一軒へ降りた。
女の子は、今夜も起きていた。
頬に、昨夜の赤みが残っている。
小さな子たちは、藁の上で眠っていた。
くう、と小さな音がした。
女の子がお腹を押さえ、甕の水を柄杓ですくって飲む。もう一杯。
ナナは、懐に手を入れた。
昨日、イルマが持たせてくれた、紙包みのキャラメル。
戸板の上の隙間から、そっと落とす。
ころん、と女の子の膝もとに転がった。
「だ、誰……?」
ナナは咄嗟に鼻をつまみ、声をかえる。
「わたしは お菓子……の妖精 です。 がんばるあなたに ご褒美を あげました」
女の子は、目をまたたかせている。
「明日 あなたは 連れ出されます。 門を通るとき 大きな声で 助けて と 言いなさい さすれば そなたは 救われる」
返事は、なかった。
女の子はキャラメルを両手で包みこみ、小さく、うなずいた。




