第42話 自称・スラムの王
「お引越しする、新しいお家って、ここ?」
港に並ぶ船の、屋根の下。
子供が、床に広げた図の赤い印を指でつつく。そばで、痩せた両親も図をのぞきこんでいる。
「そうですよ。南向きで、日当たりもいい新築の共同住宅です。最速で来月から入居可能です」
身をかがめて答えたのは、ドゥルセ商会の移住担当、イルマ。
一筋の乱れもなく結い上げた髪に、紺の上着。帳面を胸に抱えた、細身の女性だ。
「しんちく……」
意味もわからないまま、子供がにっと笑う。
ナナは戸口の脇に立って、そのやりとりを聞いていた。
(セシリアさんからの依頼って聞いて、お菓子屋さんの手伝いかと思ったのに、引っ越しの護衛……。ドゥルセって、色々やってるんだ)
イルマが、木札を二枚、図の横に並べる。
「それから、ご希望どおり、ご主人は港の荷揚げ。奥さまは製材所の賄いを割り当てさせていただきます」
妻の手が、木札の上で止まったまま動かない。
夫が、床に額がつくほど頭を下げた。
「こ、こんなにしていただいて……。俺ら、一生、スラム暮らしだと……」
妻も、頭を下げて言葉を継ぐ。
「この仮住まいの浮き家だって、前の家よりずっとよくて……」
イルマはにこりと微笑む。
「うちも、しっかり儲けさせていただくつもりですから。みなさんは、大事な働き手で、お客様です」
何度も頭を下げる一家に見送られて、戸口を出る。
渡り板を降りると、潮の匂いが戻ってくる。
港の端から端まで、屋根のついた船がずらりと並ぶ。
かつて貧民街だったあたりは、家々のほとんどが取り壊され、更地になっていた。工事の音が絶え間なく響いてくる。
その隅にだけ、古い家々が密集して、まだ残っていた。
スラムの王を自称する男が居残る、最後の一角。
「ここだけ、まだ残ってるんですね」
「立ち退きに応じてもらえないの。ガラが悪いから、もし、下品なことを言われたら……」
イルマは耳打ちした。
「え……本当に、いいんですか?」
「ええ。一番、これが効くのよ」
話しているうちに、路地の入口に着く。
人ひとりがやっと通れる幅。
頭の上には二階から二階へ板が渡され、洗濯物がぶら下がっている。奥は、昼なのに暗い。
ついてきた大柄な男の職員が、一歩下がって並んだ。
奥から、人相の悪い男が三人、ぶらりと出てくる。
「また来たのか、ドゥルセの冷たい姉ちゃん」
「今日は若い娘連れか」
「どっから拾ってきた?」
手下たちの目が、ナナの上をじろじろと這う。
イルマは、笑みを崩さないまま、帳面をひらいた。
「本日は、みなさまの新たなお住まいと、お仕事のご案内に」
「だから、いらねえって言ってんだろ!」
先頭の男が、足もとの木桶を蹴り飛ばす。
桶が、ナナの足もとへ跳ねてくる。
ナナは、つま先で受け止めた。くるりと起こして蹴り返すと、元の場所へピタリと戻った。
「な……!」
「うそだろ?」
男たちが、目を見ひらく。
「まあ、待て」
奥から、低い声。
手下のひとりが、背もたれつきの椅子を担いできて、路地の真ん中に据えた。
その椅子に、四十がらみの男が、ゆったりと腰を下ろす。
腹は出ているが、腕は太い。肩には毛皮。指に、いくつも指輪が光っている。
着ているものだけが、この路地に似合わない。
「親分」
親分は、イルマを一瞥した。
それから、その目がナナの上で止まる。
「で、姉ちゃん。上には伝えてくれたか? こっちの言い値」
「うかがった額は、お支払いできませんよ」
「はっ。英雄アロフィス様のほうが、遥かに金払いがよかったぜ。ドゥルセも、ケチなもんだ」
父の名に、ナナの指先がこわばる。
「……まあ、そうだな。そこの娘を置いてくってんなら、差額は考えてやってもいい」
手下たちが、どっと笑う。
「あいにくドゥルセは、人の売り買いはいたしませんので」
笑いが、止まる。
「姉ちゃんには聞いてねえよ。おい、娘、こっち来て、体あらためさせろ」
ナナはイルマを見る。
(……やっていいんですか?)
イルマは笑みを浮かべ、うなずいた。
一歩前に出るナナ。
親分が相好を崩す。
「おお、素直でいい。早く来い」
途端に、ナナは顔をしかめ、鼻を指でつまんだ。
「く、くさい!」
男たちが硬直した。
「おじさんたち、すごく、くさいです!」
路地が、しんと静まりかえる。
手下のひとりが、そっと自分の脇に鼻を寄せた。
隣の男が、その頭をはたく。
「嗅ぐんじゃねえ!」
親分の顔が、首の下から赤く染まっていく。
「て、てめえ……」
「失礼いたしました」
イルマが、すっとナナの前に出る。笑みは、ひとかけらも揺れていない。
「この子、鼻がとてもいいもので。正直なんです」
後ろで、大柄な男の職員が、こらえきれずに咳払いをした。
ナナは鼻をつまんだまま、一歩下がる。
それでも、指の隙間から匂いが入りこんでくる。
汗と、酒と、安い香油。
その下に、もうひとつ。指輪の光る親分の手から、鉄錆のような匂い。
(……血?)
思わず、ナナの顔がゆがむ。
親分が、たじろいだ。
「くそっ……」
「親分、あんな顔されたら、こたえますね……」
「うるせえ! ……ちっ、早く用件を言え」
「では。奥で暮らしている、住人のみなさまを呼んでください。お一人ずつに、ほかの地区と同じ額をお支払いします。お住まいと、お仕事もつけて」
「一人ずつ、ねえ。そんな手間、かけなくていい」
親分が、赤い顔のまま、指輪を撫でる。
それから、頭上の窓を顎でしゃくった。
「ここの女どもは、俺が養ってる女たちだ。どうするかは俺が決めて、そいつらの金は全員分、俺がまとめて預かってやろう」
「ご本人に直接お渡しする決まりです。万が一、どなたかに横取りされては、いけませんから」
親分の目が、すっと細くなる。
「……頭の固え女だ」
手下のひとりが、腕を振りかぶる。
握り拳ほどの石。
ナナの手が、腰の横で浮く。
イルマは、半歩、肩をずらす。それだけで、石は耳の横を抜け、向かいの壁に当たって砕けた。
一歩後ろの男の職員も、眉ひとつ動かさない。
帳面を閉じるイルマ。
「このような行為は、交渉打ち切りにつながりますが、よろしいので?」
声の調子は、さっきと何ひとつ変わらない。
石を投げた手下が、口を開けたまま固まっている。
浮いた手を、ナナはそのまま下ろした。
(……ドゥルセの人たち、みんな強い)
親分が、面白くもなさそうに鼻を鳴らして立ち上がる。
「そっちこそ、よく考えとくんだな。ここは、スラムの王である俺のシマだ」
手下がすかさず椅子を担ぎ上げ、一団が、路地の奥へ消えていく。
静かになった路地で、ナナは顔を上げた。
二階の窓。
女ばかりが、こちらを見下ろしている。
誰も、口をひらかない。
目が合うと、ひとり、またひとりと、窓の奥へ引っこんでいく。
最後に残った女が、戸板に手をかける。
頬から目もとにかけて、腫れ上がっていた。瞼が、ふさがりかけている。
(お父様に殴られていた、女の人の顔と同じ……!)
女は目を伏せ、戸板を閉めた。
◇
帰り道、また工事の音が聞こえてくる。
「期限まで、あと十日。過ぎれば、公爵家の兵が撤去に入るわ」
「……あの路地に、兵隊さんが入ったら」
「ええ。最終的には仕方ないけど、一番怖いのは、自暴自棄になられることよ。奥で火を出されたり、女子供を盾にされたり」
イルマが、足を止める。
振り向いた目は、もう笑っていなかった。
「だから、その前に奥を見てきてほしいの。誰が敵で、誰を助けるべきなのか。小柄で、気配を消せて、戦える人に」
ナナは、一角のほうを振り返る。
閉じられた戸板の向こうに、あの腫れた顔がある。
「……わかりました」
◇
夜間外出禁止の沿岸区に、灯りだけが並んでいる。
その光の届かない屋根の上に、ナナは身を伏せていた。
屋根板には、昼の熱がまだわずかに残っている。
真下の部屋から、灯りと声が漏れてくる。
ナナは、ゆっくりと目を閉じた。
音が、匂いが、ひとつずつ流れこんでくる。
酒。脂。指輪が、卓を叩く音。
「ドゥルセのやつら、立ち退き料の釣り上げに応じてこねえ。潮時だ。残りの女どもを売るぞ」
「売り先は」
紙をめくる音。
「取引は明後日だ。先方は、女の供給がなくて、がっついてきてるからな。高く買ってくれるぜ」
手下たちの、下卑た笑い。
「英雄アロフィス様が、な」




