第39話 上等な妻
同じ夜、英雄アロフィス・ソルゾラス邸。
「あら、またここにいたの? 本当に、若い妻がお気に入りなのね」
第二夫人レナリルが、部屋に入ってきた。
夜着の上に、深い青の薄衣を一枚。結いを解いた髪が背に流れ、灯りを受けるたび紫がにじむ。
濃い唇だけが、昼と変わらない。
通り過ぎたあとに、甘く重い香が残った。
第四夫人の部屋には、彼女の好む可愛らしいドレスと、大小のぬいぐるみが並んでいる。
そこに、不釣り合いな鉄と血の匂い。
「ああ。僕の出した命令が、なに一つ達成されていなくてね。彼女の顔を見ていると、少しばかり心が落ち着くんだ」
夫アロフィスは、鞭を布で丁寧に拭い終えると、優雅に立ち上がった。
豪奢な寝台の隅では、第四夫人が、うさぎのぬいぐるみを抱え、声を殺して息を整えようとしている。
髪に結んだ桃色のリボンが、片方だけほどけて垂れていた。沿道で屈託なく笑っていた、まだ丸みの残る頬。そこが今は、赤く腫れ上がっている。
悲鳴を上げれば、さらに打たれる。この一月で、そう学びきっていた。
レナリルは寝台に一瞥をくれただけで、化粧台の椅子に腰を下ろし、ゆるりと脚を組んだ。
「そんな傷をつけては、次の式典に連れていけないわよ」
「式典に出すような『上等な妻』なら、こんな扱いをすると思うかい?」
「ま、それもそうね」
化粧台の小瓶をひとつ取り上げ、灯りに透かす。第四夫人が、嫁入りのときに持ってきた香水だった。
「……可哀想に。実家のグレンス商会さえ落ちぶれなければ、今頃は大事に愛でられていたでしょうに」
小瓶が、元の場所へ戻される。少しだけ、ずれた位置に。
「今や、ただ甘やかされて育った世間知らず。若いだけの女さ。捨てずにいる僕に感謝してもらわないとね。……そうだろう?」
鞭の柄が、第四夫人の濡れたあごを持ち上げる。
歯が、がちがちと鳴った。
レナリルが、袖から折りたたんだ紙片を抜き出す。
「暗殺党から連絡よ。偵察組が、銅等級冒険者ナナを見つけたわ」
鞭の柄が、あごから離れた。アロフィスはもう、若い妻を見てもいない。
「おお、やっとか。それで?」
寝台の隅で、ぬいぐるみを抱く腕が、ふっとゆるんだ。
腫れた瞼の奥で、瞳が揺れた。
『銅等級冒険者の、ナナです。あなたの二番目のお兄さん……テオさんのことを、知っています』
関門で、泣き崩れた自分の前に膝を折ってくれた少女の名。
(あのとき、あの子についていけば……)
紙片に目を落としたまま、レナリルの視線だけが、一瞬、寝台へ流れる。
「井戸の張り込みに加わっていたらしいの。もう、追跡に入っているそうよ」
アロフィスは、窓辺へ歩み寄った。
坂の下で、沿岸区の灯りがまばらに瞬いている。
「ふむ、あちらの守りは硬いようだ。やれるかな?」
「今の沿岸区は、本当に硬い。一兵卒でも、並の冒険者とは比べものにならないもの」
「……それほどなのか」
「でも、党の虎の子を出させたわ」
「虎の子?」
「臆病なくらい、慎重な男よ」
「臆病者が虎の子とはね」
アロフィスが、鼻で笑う。
レナリルは、笑わなかった。
「臆病だから、生き残ってきたの。少なくとも、手がかりは持ち帰るはず」
「ずいぶん自信があるね。……ま、君の勘は外れたことないけど」
レナリルは紙片を畳み直し、指先でその縁をなぞった。
「勘でいうなら……あなたが出ないと、ナナには届かない気がする」
「へぇ……」
窓硝子に映ったアロフィスの瞳が、怪しく光った。
◇
大尖塔を出た暗殺党の五人が、市街区の暗がりを駆けていく。
坂を下るにつれ、潮の匂いが濃くなってきた。
「……関門を破るのが、最短距離だ」
最後尾の痩せた男が、首を振った。
「勝手にしろ。俺は関門を避けて、壁を越える」
五人は、三人と二人に分かれた。
大通りの関門。鉄門の脇に、人ひとり分の通用口がある。
「通用口を爆破する」
三人が、背中の袋から爆弾を取り出した。
ひゅっ、と風が鳴る。
先頭の男が、前のめりに倒れた。
残る二人も、声を上げる間もなく矢に貫かれ、石畳に転がる。
遅れて通用口が開き、兵士たちが出てくる。
「周囲を警戒しつつ、遺体と所持品を回収せよ」
「はっ!」
「市街区から来る、か。ナナ殿の見立てどおりだな」




