第35話 黙れ
「あのぉ、旦那様。私、お腹空きました」
「……」
市街区を進む、英雄アロフィス・ソルゾラスの馬車。
第四夫人は、さきほど夫に掴まれた肩をそっとさすった。
「旦那様? 聞いてます? どこか、流行りのお店に……」
「黙れ」
第四夫人が、息を呑む。
「お前の兄たちは何をやっていたのだ」
「え……?」
「貴族に動く口実を与えてどうする? 間抜けもいいところだ」
「わ、私に言われても……」
「何も知らないなら、黙ってろ」
第四夫人は、震える唇を開きかけて、閉じた。
窓の外へ、潤みかけた目を逃がす。
車輪の音だけが、しばらく続く。
外で蹄の音がして、馬車が停まった。
車体後部に立ち乗りしていた従者が、早馬の使いから何かを受け取り、窓をトントンとノックする。
「なんだ?」
「旦那様、急ぎのお便りでございます」
小さく扉が開き、手紙が差し入れられた。
アロフィスが受け取ると、静かに扉が閉められる。
「な、なんでしょうね?」
「覗き込むな。どうせお前にはわからない」
「はっ、はい……」
手紙に目を走らせるアロフィス。
『南の谷の召喚陣、使用不能。甚大な被害から災害の可能性あり』
みるみるうちに顔がこわばっていく。
手紙を破くと、投げつけた。
「ひっ……」
紙片が、第四夫人の膝に散る。
アロフィスが、馬車の扉を蹴った。
慌てた様子の従者が、再び、扉を開ける。
「近くに来い。二つ、言伝がある」
身を乗り出し、耳打ちする。
ひそめたはずの声が、途中から大きくなった。
「一つは暗殺党への依頼だ。……沿岸区の銅等級冒険者ナナを誘拐しろ。腕と足は折っても構わんが、顔と体は傷つけるな」
「は」
「門兵が邪魔だ。近くの井戸に毒を撒け。足がつかないよう、浮浪者でも雇え」
「承知しました。ただちに」
従順な返事に、満足げに笑うアロフィス。
「ああ、頼んだよ」
扉が閉まり、馬車が動き出す。
アロフィスは椅子に深く座り、腕を組むと、瞑目した。
「……だ、旦那様……」
おそるおそる、第四夫人が声をかける。
精一杯の猫撫で声だった。
「……あの、お疲れですか?」
「ああ。……ひさびさに無礼なことをされたからね。さすがの僕も怒る」
「そ、そうですよね」
「まあ、もう手は打った。数日中には片がつくはずさ」
「よかったです……」
「僕に恥をかかせた奴らには、思い知らせないといけない」
ギラリと前を睨んだ。
来たときとは、まるで違う顔。
膝の上の紙片を、第四夫人は拾えなかった。
◇
湯気が、天井まで立ちのぼっていた。
公爵家、高台の屋敷。
石造りの浴場。壁際に据えられた大きな浴槽に、湯が張られている。
肩まで沈むと、声が出た。
「……はぁあ」
熱い。
芯まで熱い。
実家にも、湯浴みの部屋はあった。
侍女たちが厨房から手桶で運んでくれた。
浴槽に張り終わるころにはぬるくなってしまったけれど。
(あったかい……)
膝を抱えて、湯に顎まで浸かる。
坂を上る足の重さも、塩袋の重みも、湯の中でほどけていく。
沈めたまま、掌をひらいた。
(お父様、やっぱり、気づいてなかったな)
湯を掬って、顔を上げる。
(……記憶してたより、気持ち悪い人だった)
髪から滴が落ちる音だけが、天井に響いた。
湯を上がり、メイド服に着替えていると、ロッタが入ってきた。
「うわ、リリア。腕と背中、筋肉すごっ!」
「そう、かな?」
「うん、かっこいいよ。メイド長さまかと思った」
「え、メイド長さまの筋肉、見たことあるの?」
「すごいよ。バーンって! リリア、ちょっと背中触らせてよ」
にやりとしたロッタが、指をわきわきさせる。
「い、いやよ。恥ずかしいもん。先、いくね」
「えーっ、ケチー!」
「ケチでいいもん」
「あ! リリア!」
「なに? 触らせないよ。メイド長さまに呼ばれてるんだから」
「違う、違う。最近、おつかれさまね! メイド長さまも褒めてたよ。リリア、がんばってるって」
「あ……うん……ありがと」
うつむくと、リリアは足早に出て行った。
廊下で、前掛けのポケットから銅の徽章を取り出す。
刻まれた名は、ナナ。
胸元に留めた。
小さな重みが、メイド服の布を引く。
屋敷の一室に、灯りがともっている。
卓を囲んでいるのは、メイド長と、門番隊の兵が数名。
その上座に近い席に、関門でナナを通してくれた兵がいる。兵士長だった。
「すみません、遅れました」
ナナが、最後に入ってくる。
「大丈夫ですよ。時間通りです」
メイド長が、空いた椅子を示した。
「おう、ナナ殿。さきほどは世話になったな」
「いえ、こちらこそ。放っておけなかったもので」
――実の父のことだから、とは言えなかった。
兵士長が、腕を組む。
「俺の経験からすると、あの男は諦めるようには見えなかった」
「ええ、ですから」
メイド長が、卓の上に地図を広げた。
「これより、沿岸区の警備打ち合わせを始めます」




