第32話 ヘンタイ英雄
『テオ。明日、英雄ソルゾラス家に送る商品を蔵に入れてある。上物ばかりだ。誰も蔵に近づけるな』
『……俺は、後ろ暗い仕事なら手伝えない』
『お前以外の男は、商品に手を出す恐れがある。英雄様は、傷のない新品を好まれるんだ』
テオは、息を呑んだ。
(……一体なんなんだ? 中身を確認しないと)
『……わかった』
『よし、これで女どもと酒が飲める。いや、お前がヘタレで助かったぜ。ああ、蔵の中には入るなよ!』
厳重な二重扉。
内扉を開けると、女たちが身を寄せ合っている。その中に、知った顔。
『テ、テオ!』
『トゥーリ……本当に、お前が……』
トゥーリの頬を、涙が伝う。
『借金を負わされて! そのカタに、連れて来られたんだよぅ!』
『そんなバカな! お前の実家の経営は、何も問題なかったはずだ!』
『あんたの兄貴と手下たちが……! 値上げ分払えねえなら、娘を出せって! 英雄様に可愛がってもらえって!』
目の前が、真っ暗になった。
英雄がスラムの奴隷を買い集めている噂なら、耳にしている。
だが、まさか――。
――誰かの手が、額に触れた。
「……トゥーリ……無事だったか」
「あたしはトゥーリじゃないよ。悪かったね、ババアで」
皺の深い手が、額の布を取り替えた。
「……あ、おばあさん……。すみません、夢を……」
「まだ寝てな。三日も夢うつつだったんだ」
港に浮かぶ、浮き家の宿。
天井の揺れが、おさまらない。
目眩ではなかった。寝台ごと、波に持ち上げられている。
「あの、ウチの店は……兄貴は、どうなりました?」
「あんたの兄貴は、牢の中だよ」
老婆が、布を絞る。
「グレンス商会は、公爵家に差し押さえられた。店も、蔵もね」
「も、戻らないと……痛っ!」
起こしかけた背が、寝台に落ちる。
腹の奥で、焼けた針が束になって動いた。
「やめときな。頭と腹の中がやられてる。医者じゃ手に負えないってんで、あたしのとこへ担ぎ込まれたんだ」
窓の外から、人の声が流れてくる。
ひとりやふたりではない。浮き家を渡す板の上を、足音が行き交っている。
「……なんの、騒ぎですか」
「なんだったかね、ノブレス・オブリージュとか言ったか。屋敷の連中が、あんたの家の蔵の中身を配ってるんだとさ」
老婆は、窓のほうへ顎をしゃくった。
「いまは、寝るのがあんたの仕事だよ」
「……はい」
テオは、目を閉じた。
ざわめきが、波の音に混じっていった。
◇
沿岸区の通りに、麻袋が積まれていた。
塩。麦。灯り油の小樽。綿の束。
どれにも、グレンス商会の焼き印が押してある。
「はい、次の人! 一家にひと袋ずつだよ。二度並んだら、顔で覚えてるからね!」
ロッタの声が、通りの端まで響く。
リリアは、差し出される手に塩の袋を載せていった。
皺の寄った手。荒れた手。小さな手。
袋の重みが、次々に離れていく。
「ありがとね、お嬢ちゃん」
「……いえ」
通りの軒先に、揃いの金属板が掛かっていた。
白銀の竜。公爵家の紋。
昨日まで何もなかった店先に、一軒、また一軒と、朝の光を返している。
広場の高札には、グレンス商会の罪状が貼り出されていた。
人身売買の売り先の欄に、英雄アロフィス・ソルゾラスの名が見える。
「おーい! お嬢ちゃん!」
パイの屋台から、店主が手を振った。
その軒にも、竜の板が下がっている。
「値札、見てくれよ。前のに戻したんだ」
「……本当だ」
「公爵家が、胡椒も塩も卸してくれるってさ。場所代もなしだ」
店主が、声を落とした。
「場所代をとってた連中は、今朝、広場でな……」
風向きが、変わった。
潮の匂いに、鉄の匂いが混じる。
リリアの手が、袋の口で止まった。
「こら、手が止まってるよ」
ロッタが、肘で小突いてくる。
「自業自得ってやつさ。あいつら、人を攫って売り飛ばしてたんだから」
「……はい」
リリアは、自分の掌を見た。
短剣の柄の感触が、まだ指の内側に残っている気がした。
通りの向こうから、子供たちが駆けてくる。
「関門に、英雄が来てる!」
「ヘンタイ英雄だー!」
リリアの耳が、熱くなった。
列が、ざわめいた。
「アロフィスが?」
「なんで、いまさら」
ひとりが、膝に手をついて息を継いだ。
「兵隊さんが、通さないって。ヘンタイ様、ずっと門の前で笑ってる」
リリアの手から、袋が滑り落ちかける。
ロッタが、それを受け止めた。
「……行ってきな」
「え」
「顔に書いてあるよ。ここは、あたしが見とく」
坂を下りきったところに、鉄門がそびえていた。
門前の広場に、人影はない。
三日前から、公爵家の兵が陣取るようになった。
以来、沿岸区の者も、市街区の者も、この門には近づかない。
リリアは、詰所の石壁に身を寄せた。
門の内側に、公爵家の兵が十人ばかり。袖に白銀竜の紋章。槍を立て、一列に並んでいる。
その向こう、市街区側の石畳には、腕章を巻いた傭兵たち。四頭立ての馬車。
馬車の前に、男がひとり立っている。
胸で、白金の徽章が光った。
「そう固いことを言わないでくれよ」
穏やかな声だった。
「僕の義兄が、こちらで世話になっていると聞いてね。顔を見に来ただけなんだ」
「沿岸区は、公爵家の直轄領に復帰した」
兵の声は、平らだった。
「許可のない者は通せぬ」
「君ね、僕が誰か、わかって言ってるのかな」
「人身売買の元締め、アロフィス・ソルゾラスだろう? まだ英雄扱いしてくれる者がいるなら、市街区へ帰るといい」
男は、目を瞬いた。
「なんだ、貴族ジョークかい?」
声をあげて笑う。
兵は、眉ひとつ動かさない。
槍の列も、揺れない。
笑い声が、途中で途切れた。
「……面白くないよ」
馬車の扉が、内側から押し開けられた。
「ひ、ひどい! イーゴお兄ちゃんも帰さないし、横暴です!」
若い女が、踏み段から転がるように降りてくる。
第四夫人だった。
「兄に会いたければ、公爵家へ願い出よ」
兵は、女のほうを見もしなかった。
「あの男は重罪人だ。面会の嘆願が通るかも分からんがな」
「……じゅう、ざい、にん」
第四夫人の唇が、その言葉をなぞった。
膝が、石畳に落ちる。
それから、弾かれたように顔を上げた。
「ひどい、ひどい! お兄ちゃんが有能だから、邪魔なんだ! 貴族がズルしたんだ! 濡れ衣だ!」
兵の列からは、何も返ってこない。
アロフィスが、言葉を継いだ。
「僕からも抗議するよ。君たちの言いがかりには、うんざりだ。教会が僕の味方なのは、知ってるよね?」
「これ以上は、公務の妨げとみなす」
兵の声は、変わらず平らだった。
「退かねば、斬る。疾く去れ」
槍の穂先が、一斉に下りた。
十本の刃が、同じ高さで止まる。
傭兵たちの手が、柄へ伸びた。
「うわああーん! ずるい、ずるい! 私、正しいこと言ってるのに!」
子供のような泣き声が、門前に響き渡る。
詰所の陰で、リリアの足が、半歩前へ出ていた。




