第30話 男は寝室に近づくな
グレンス商会の向かいに、古い倉庫がある。
その屋根の上で、ナナは腹ばいになっていた。
昼を過ぎても、店の戸は半分しか開いていない。
出入りするのは、人相の悪い男たちばかり。
(……二階の窓、帳が閉まったまま)
風が、干し網の匂いを運んでくる。
ナナは、息を浅くした。
(みんなが揃うまで、動かない)
◇
厚い帳の隙間から、午後の光が一本だけ差し込んでいた。
床に、空の瓶が転がっている。三本、四本。
乱れた敷布の上で、女が一人、背を丸めて眠っていた。
その隣で、男が身を起こす。
イーゴ・グレンス。グレンス商会の次期当主にして、英雄アロフィスの義兄。
頭が重い。口の中が、酒で粘ついている。
「……おい、水」
「……はい」
女が起き上がり、枕元の水差しを掴む。
「空っぽなので……とってきます」
女は服を羽織る。
イーゴは舌打ちして、瓶に口をつけた。底に残っていた葡萄酒を、そのまま喉へ流し込む。
女が扉を開ける。
「あ、起きられましたか!」
廊下の端で待っていた男衆が、駆け寄ってきた。
「うるせえ。男が俺の寝室に近づくんじゃねえ」
女が男衆の脇を通り抜けていった。
「しかし、ご報告が……」
「ちっ、俺も、英雄様のように使用人を女に変えていかねえと……」
「その……今朝、アロフィス様のお屋敷へ納めるはずの娘たちが、消えました」
瓶を持つ手が、止まる。
「……は?」
「奥の部屋の錠は、そのままで。五人とも、影も形も……」
瓶が、壁で砕けた。
「今朝だと? なぜ、すぐに報告しなかった!」
「イーゴ様が、男は寝室に近づくなと日頃から……」
「この、馬鹿野郎が!」
寝台脇の瓶を、もう一本掴んで投げる。
鈍い音。
「痛っ!」
男衆の額から、血が一筋流れた。
「くそ! テオは何やってやがった! テオを呼べ!」
テオが部屋に入ってきたのは、イーゴが上着に袖を通しかけたときだった。
女は、戻ってこなかった。
代わりに、鉄等級の傭兵が三人、戸口の脇に立っている。
窓際の長椅子には、男が一人、足を投げ出していた。
二の腕に、ソルゾラス家の腕章。胸元で、銀の徽章が鈍く光る。
英雄様がよこした、用心棒。欠伸を噛み殺しながら、兄弟を眺めている。
「兄貴、やっと起きたか」
「テオ! 女たちがなぜいなくなった! 警備はお前の担当だろうが!」
「俺には無理だった」
テオは、兄の目を見なかった。
「夜のうちに、公爵家の連中が来て、連れて行った。……止められるわけがない」
「なぜ、そのとき俺を起こさなかった!」
「男は寝室に近づくな、だろ」
イーゴの口が、開いたまま止まった。
「この、能無しが!」
「それどころじゃない。ウチの危機だ」
テオが、懐から封書を取り出す。
上質な紙。封蝋が、三つ並んでいる。
そのひとつに、白銀の竜。
「置いていったのは、これだけだ」
イーゴは、それをひったくった。
『グレンス商会に貸与せし塩・胡椒の専売権を、ここに抹消する。
イーゴ・グレンスの罪は明白なり。その身柄の引き渡しを要求する』
「せ、専売権だと? そんなもん、聞いたこともねえぞ! 教会の許可さえあれば……」
「……兄貴。その教会の許可権ですら、公爵家からの委任だ。元を断たれたら、どうしようもない」
「おかしいだろう! なら、なんでいまになって急に!」
「兄貴が値上げしたからだ。人身売買にまで手を出したから、見限られたんだよ」
イーゴの目が、紙の下へ落ちた。
署名が、並んでいる。
王国公爵 当主代理 メイリーン・セレスタリア・ショカルナ
(当主代理……? あの家の主は、ずっと留守じゃなかったか)
王国大教区 大司教 グレゴール・ハルシオン
紙を持つ指先が、白くなる。
(大司教……マルドゥクの、ずっと上の……)
ドゥルセ商会 総帥 セシリア・ドゥルセ
「……ドゥルセ、だと」
大陸で、その名を知らない商人はいない。
胡椒も塩も、グレンスがいなくとも、明日には港へ届く。
「なんでだ……。なんで、俺が」
声が、細くなっていた。
「当たり前だ」
テオの声は、逆に大きくなる。
「ウチが守ってきた信用を、兄貴はたった数ヶ月で潰したんだ」
「……テオ」
「権利関係すら理解せず、英雄様の真似事。兄貴こそ能無し――」
拳が、テオの頬にめり込んだ。
テオの体が、卓にぶつかって床へ落ちる。
帳面が崩れ、インク壺が転がった。
「ぐっ……」
テオが、口元を拭って顔を上げる。
「黙れ……黙れ黙れ黙れ!」
イーゴは、戸口の男衆を振り返った。
「押さえろ!」
男衆が二人、テオの両腕を床に縫いつける。
二発目。三発目。
テオの唇が裂け、床に赤いものが散った。
長椅子で、銀等級の男が肩をすくめる。
「おいおい、義兄殿。弟さん、死んじまうぜ」
イーゴは答えない。
男衆の手からテオの襟首をもぎ取り、自分で吊り上げた。
四発目を振り上げた、そのとき。
階下で、何かが倒れる音がした。
怒鳴り声が、ひとつ上がって、途切れる。
ドガンッ!
扉が、部屋の中へ吹き飛んだ。
扉の前にいた男衆が、扉ごと床を転がる。
戸口に、ナナが立っていた。
短い髪。胸元に、銅の徽章。
腰に、短剣。
「……本当に乱暴者。早めに突入してよかった」
小さな声だった。
「なんだ、てめえ!」
鉄等級の傭兵が、剣を抜いて斬りかかる。
ナナが、踏み込んだ。
膝が、傭兵の腹に突き刺さる。
「ごふっ!」
傭兵が、真後ろへ飛んだ。
窓際の壁に叩きつけられ、帳ごとずり落ちる。
残りの男衆が、二人がかりで掴みかかった。
ナナが、腕を振り抜く。
一人目が、横へ吹き飛んで卓を砕いた。
二人目は、天井近くまで浮いて、壁際の棚へ落ちた。
ナナは、止まらない。
床を蹴って、まっすぐイーゴへ。
その前に、銀等級の男が立ちはだかった。
長椅子にいたはずの男が、もう剣を抜いている。
「銅等級か! 悪いな! 俺は銀だ!」
男の刃が、横薙ぎに走った。
ナナが、しゃがむ。
刃が、頭の上を通り過ぎた。
そのまま低く、男の脇をすり抜ける。
「なっ――」
イーゴは、テオの襟首を掴んだまま固まっていた。
ナナの脚が、下から跳ね上がる。
グシャッ。
爪先が、イーゴの顔面にめり込んだ。
イーゴが、後ろへ吹き飛ぶ。
宙に、白いものが二つ散る。
掴んでいたテオの襟首が手から離れ、イーゴは床に転がった。
「ぶぁっ……! は、はにゃが……おれの、歯がぁ……!」
銀等級の男が、舌打ちした。
「油断した。……今回は護衛任務だったな」
男の顔から、笑いが消えた。
ナナは、倒れたテオの前に立ち、背中にかばった。
イーゴが、四つん這いで扉のほうへ逃げようとする。
ナナが踏み出す。
その間に、銀等級の男が割り込んだ。
キィンッ!
振り下ろされた剣を、短剣が受け止めていた。
ナナは、小さく息を吐く。
「……危なかった」
「二度も依頼人に手を出させるわけには、いかないんでね」
イーゴが、へたり込んだまま固まる。
「……お、おれを、蹴りやがって。な、なんなんだ、てめえは……」
ナナが、間合いをとる。
「冒険者ナナ。公爵家の依頼により、参上しました」
銀等級の肩越しに、イーゴを見据える。
「イーゴ・グレンス。盟約を反故にした罪により、捕縛します」
銀等級の男が剣を構え直した。
戸口の脇で、残る鉄等級の二人も剣を抜く。
「……殺しても構わない、という依頼です」




