第29話 空でも眺めていてね
港へ下る坂の途中に、その蝋燭工房はある。
軒下に吊るした蝋燭の束が、朝の風に揺れて触れ合う。
「じゃあ、おじさん、おばさん。これ、お店の見えるところに貼っておいて。そうすれば、ならず者は近づけなくなるはずだから」
ロッタが、布包みを解く。
出てきたのは、手のひらほどの真鍮のプレート。白銀の竜の紋章が、朝日を返している。
工房の主人は、前掛けで両手を拭った。それでも、指を伸ばそうとしない。
「いいんかい? これ、港のお貴族様の紋章だろう? 不敬になるんじゃ……」
「あたしら、そこの屋敷の人間でしょ。こっちのリリ……じゃなかった、ナナは銅等級冒険者だし」
主人の目が、リリアの顔と、胸元の徽章を行き来する。
「ああ……うちのトゥーリくらいの歳で、銅等級か。すごいね」
隣で、おかみさんが小さく頷く。
けれど、主人の首は、そのまま傾いでいった。
開け放した戸の奥。作業場の竈は、火が落ちたまま。
「おじさん、心配?」
「正直ね……」
主人が、プレートに目を落とす。
「貴族様の印なんかつけて、かえってグレンス商会に目をつけられやしないか。……それが、心配ではある」
「これも、お渡ししておきます」
リリアは、肩掛けの鞄から小さな笛を取り出した。
銀色の、指ほどの長さしかない笛。
「うちのメイド長から、紋章プレートと一緒に渡すようにと。なにかあったら、迷わず吹いてください」
主人の手を取り、握らせる。
「思いっきり」
主人は、手の中の笛とリリアの顔を見比べる。
「……吹いたら、どうなるんだい」
「『兵を出す』とのことです」
首が、横に振られる。
「ありがたいが……そうなると、おたくがグレンス商会と衝突するんじゃ。先代以来の付き合いだと、みんな知っているぞ」
「その付き合いは、もういいってさ。先に犯罪やらかしたのは、あっちだもん」
ロッタが、にっと笑う。
おかみさんが、主人の手ごと、笛を両手で包んだ。
「……あんた。貼ろう」
主人は、しばらく黙っていた。
それから、戸口の柱にプレートを当てる。
釘を打つ音が、朝の通りに三度、響いた。
「あと四軒と、屋台だね」
指を折りながら、ロッタが歩き出す。
リリアは、動かなかった。
向かいの軒下。樽に腰かけた男が、工房の柱を見ている。
二の腕に、布が巻かれていた。
リリアは、通りを渡った。
「おはようございます」
男の肩が跳ねる。
(……隙だらけ。ギルドにいた傭兵たちより、ずっと弱い)
胸元を見ると、鉄等級。
「この工房は、今日から高台のお屋敷とお付き合いすることになりました。お伝えください」
「……は? 誰に」
「あなたの、雇い主に」
男は、口を開けたまま。
リリアはぺこりと頭を下げ、ロッタのところへ戻った。
振り返ると、樽の上には誰もいない。
坂を上っていく男の二の腕から、布が消えていた。
◇
細い山道を抜けると、急に視界が開けた。
幾重にも連なる山々が、青く霞みながら遠くまで続いている。
道の脇の草地に、荷馬車が三台。馬たちが、首を下げて草を食んでいた。
娘たちは、倒木に並んで腰かけている。
御者たちは少し離れた岩の上で、水袋を回していた。
「お待たせ」
茂みの奥から、メイが戻ってくる。
両腕に、赤く熟れた実を山ほど抱えて。
一つずつ、娘たちの手へ配っていく。
トゥーリが、皮ごとかじった。
「おいしい!」
「ね。ちょうど実のなる時期に通りかかって、幸運だったわ」
メイも、自分の分をかじる。二口で、一つが消えた。
トゥーリは、手の中の実を見つめている。
「……お父さんとお母さんにも、食べさせてあげたかったな。景色もいいし、一緒に来たかった」
「それなら、来年のこの時期は、家族で来るといいわ」
トゥーリの口元が、ほころびかけて、止まる。
「……大丈夫でしょうか? みんなも、テオも。ひどい目にあってるんじゃないかって」
「そうかしら?」
三つ目の実を手に取りながら、メイは不思議そうに首をかしげた。
トゥーリが、一瞬、呆気にとられる。
「そ、そうですよ! 最近のグレンス商会、本当におかしいんですから!」
「大丈夫よ。……わかりやすくおかしいなら、むしろ好都合だわ」
しゃく、と実をかじる音。
岩場のほうから、御者の一人が駆けてきた。
「メイ様、見つかりました」
声を落とす。
「寄せられた目撃談のとおりです。この先に遺跡があります。そこに、おそらく召喚陣も」
「あら、早いのね。今回の旅は、幸先がいいわ」
「それが、メイさんの目的地なんですか?」
「ええ。いくつかある用事のうちの、一つがここなのよ」
芯だけになった実が、草むらへ放られる。
「ちょっと行ってくるわ。みんなは、空でも眺めていてね」
「はい! ……え、空?」
「もう少ししたら、珍しいものが見えると思うから」
メイは立ち上がり、二人の御者を連れて山道の奥へ入っていく。
その背中は、すぐに木々の影に紛れた。
残った初老の御者が、腰を上げる。
「お嬢様がた。あちらです」
指さしたのは、南の空。
「えーっ、なんだろう?」
「天気いいね。雲しか見えないけど」
青い空を、白い雲がひとつ、ゆっくりと流れていく。
草を食んでいた馬たちが、一斉に顔を上げた。
その雲が、内側から白く光った。
雲を突き破って、巨大な光の玉が落ちてくる。
尾を引く、流星。
山々の影が、一斉に反対側へ伸びる。
「きゃあああ!」
悲鳴と、光が谷へ吸い込まれるのは、ほとんど同時だった。
音が、遅れて届く。
轟音。
足元の草地が、跳ねる。
谷の向こうで、岩肌が崩れ落ちていく。低い地鳴りが、いつまでも山々の間を渡っていった。
土煙が、ゆっくりと空へ昇る。
娘たちは倒木にしがみついたまま、声も出せない。
トゥーリの手から、かじりかけの実が転がる。
それを合図に、一斉に声が上がった。
「な、なになになに!?」
「星が落ちてきた?」
初老の御者だけは、何事もなかったように、馬の手綱を確かめていた。
「い、今の……なんなんですか!?」
御者は、結び目を締め直す。
それから、谷の土煙へ、ちらりと目をやった。
「メイ様のお仕事ですよ。……だいぶ加減なさったようですな」




