第2話 初めての買い食い
「英雄様も、これで嫁さん四人か」
すれ違った男たちの笑い声に、リリアは顔を上げなかった。
(……四人どころじゃ、ないのにね)
華やかな嫁入り行列が通り過ぎると、潮が引くように人波が散っていった。
足元に残されたのは、踏みにじられた色鮮やかな花びらと、乾いた埃だけ。
(お金は一ヶ月分ある。それまでに、泊まる場所と、仕事を見つけないと)
屋敷の廊下に並んでいた、奴隷の女たちを思い出す。
みんな、綺麗な顔をしていた。
(自分もそうなるかもしれない。力仕事ならできるんだけど……)
婚礼を見送る人々とは反対に、港の方へ歩き出す。
『港には逃げた人たちが暮らせる場所があるらしい』
若い女奴隷が言っていた。
道ゆく人に聞いてみる。
「あの、港のほうに……誰でも暮らせるっていう場所、あるって聞いたんですけど、知ってますか?」
「宿無しなら、沿岸区のどこにでもいるよ? お嬢ちゃんは家に帰ったほうがいい」
その後、勇気を出して一人、二人に聞いてみても、同じような答えだった。
(手がかり、なさすぎるよ)
それだけじゃない。
さっきから、お腹が鳴りっぱなしだ。
(目が回ってきた……)
匂いを頼りにたどり着いたのは、屋台が並ぶ、石畳の通り。
焼き魚の香ばしい匂いが漂っていた。
鉄板の上では串肉が音を立て、籠いっぱいの果物が陽を浴びて色鮮やかに並んでいる。
見たこともない貝料理には、人だかりができていた。
(あれ、食べたい!)
思わず足が向きかける。
けれど、革袋の中の銅貨を指先で数えて、思いとどまった。
「高いなぁ……」
屋台を一軒ずつ眺めながら歩く。
値札は同じでも、客層が違う。
港から戻った船乗りが、酒と一緒に頬張る店。旅人ばかりが立ち寄る店。香辛料の香りだけが派手で、人の入らない店。
その中で、一軒。
籠を抱えた女性たちが立ち寄り、子供に半分渡し、自分も笑って口へ運ぶ。
(あっ! あのお店)
並んでいる料理は素朴だった。
香草で味付けした白身魚を、厚みのあるパイで包んで焼いたもの。
湯気は絶えず立ち上り、店主の手は休まらない。
「それ! 一つください」
受け取った温かな包みから立ちのぼる香りに、自然と頬が緩んだ。
「これが……買い食い……」
一瞬の、躊躇い。
えい、と意を決して小さく一口。
パイ生地が軽く弾ける。
中から熱々の白身魚が顔を出した。
「ん……っ」
思わず肩が震える。
ぎゅっと詰まった旨味があふれ出し、カリカリに焼かれたパイの香ばしさが後を引く。
(大当たりだ……!)
気づけば二口目を頬張っていた。
「おいしい……!」
言ってから、あたりを見た。誰も聞いていない。
もう一度、小さく言った。
「……おいしい」
(いつか、お母様にも食べさせてあげたいな)
指についたパイの欠片を舐め取ると、リリアはひとつ息をつく。
(……さて、宿を探さないと)
石畳の通りは、まだ昼の賑わいを見せている。荷を担ぐ男、魚籠を抱えた女、異国の言葉を交わす商人。
通り沿いの一軒に、思いきって声をかけた。
「あの、一晩泊まりたいんですけど」
帳場の主人は、顔も上げなかった。
「子供だけは置かないよ」
「お金なら――」
「しつこいぞ、帰れ」
次の一軒は、扉を開ける前に断られた。
軒先を掃いていた女が、リリアを上から下まで眺めてから、首を横に振ったのだ。
「うちは満室でね」
空いている窓が、いくつも見えた。
(こんなにも、宿って泊めてもらえないものなんだ……)
空を見上げると、日が少し傾き始めていた。石畳の熱が、少しずつ引いていく。
(どうしよう、どうしよう)
リリアは足を早めた。
その姿を、時計塔の陰から見下ろす人影があった。
ココアベージュの髪の女性が、白身魚のパイを食べている。
足元には、空になった包み紙が四つ。
最後の一つを口へ運ぶと、はふ、と息を漏らす。指先を軽く振って熱を払い、懐から一枚の紙を抜いた。
折り目のついた上端に、少女の肖像。
絹の襟に、結い上げた髪。筆の細さは、市井の紙には過ぎたものだった。
リリアーヌ・ソルゾラス 十三歳
女性は、紙の中の顔をしばらく眺めていた。
それから紙を畳んで懐へ戻し、日よけの布の陰へ、音もなく身を引いた。




