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英雄ハーレム、崩壊記〜その娘が父の裏の顔を暴き、超えるまで〜  作者: 水戸直樹


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第1話 四人目の花嫁が来た日

 ――二年前。


 鏡の中で、黒茶の髪が少しずつ編み上げられていく。


「リリアお嬢様も、もう十三歳。第四夫人の披露宴に備えて、うんとおめかししましょうね」


 背後で、ハンナが歌うように言った。

 櫛を運ぶ手に、迷いがない。前の侍女より、ずっと上手だった。


 鏡越しに、ハンナの首元で何かが光る。


「……そのネックレス、なに?」

「これですか?」


 ハンナは手を止め、細い鎖を指先で持ち上げた。小さな青い石が、ひとつ揺れる。


「母の形見です。いつか私がお嫁に行って、娘ができたら、あげるのが夢なんです」


「綺麗だね」


「ふふっ。つけてみます?」


「え……。悪いよ、形見なんでしょう? いいよ」


「つけたそうな顔、してますよ」


 ハンナは笑って、留め具を外した。

 ひやりとした鎖が、リリアの首に回される。


「披露宴が終わるまで、お貸ししますね」


「あ、うん。……ありがとう」


 鏡の中の自分が、少しだけ大人びて見えた。


 扉が叩かれたのは、そのときだった。


「ハンナ! ここにいたの? 旦那様がお呼びよ」


 年嵩の侍女は、それだけ言って顔を引っ込めた。


 櫛が、一瞬だけ止まる。


「……は、はーい」


 ハンナは編みかけの髪を手早くまとめ、ピンを一本挿した。


「じゃあ、お嬢様、行ってきますね。続きは、戻ってから」


 それきり、ハンナは、いなくなった。


 編みかけの髪は、別の侍女が仕上げた。

 ハンナのことを尋ねても、首を傾げるばかりだった。


 思い起こせば、それは初めてじゃなかった。


 刺繍を教えてくれた侍女がいた。

 寝る前に、港の話をしてくれた侍女もいた。

 どちらも、ある日を境に顔を見なくなった。誰も、理由を口にしなかった。


 いつの間にか、侍女が変わっている。

 この屋敷では、それが当たり前だった。


 リリアは、首元の石に触れた。

 鎖は、もう、自分の体温になじんでいた。


 ◇


 ハンナがいなくなって、三日目の夜。リリアは寝台を抜け出した。


(あの日、ハンナはお父様に呼ばれたはず……)


 燭台は持たない。

 息を殺し、足音を殺して、廊下を進む。気配を消すのは、昔から得意だった。この屋敷で、リリアに気づく者は多くない。


 父の部屋の前で、足が止まった。


 扉の向こうから、女の声がする。


(ハンナ?)


 違う。

 けれど、若い女の声だった。


 この屋敷には、三人の妻がいる。入れ替わる愛人がいて、侍女がいて、女奴隷たちがいる。

 声だけでは、誰なのか分からない。


 悲鳴が、上がった。


 リリアは、廊下の柱の陰に身を縮めた。


 扉が開く。

 女奴隷が二人がかりで、若い女を抱えて出てきた。女の腕は、だらりと垂れたままだった。


 灯火が、その顔を照らす。


 殴られ、腫れ上がった顔。


(ひっ……!)


 両手で、口を押さえた。


 ハンナじゃない。

 ほっとした自分に、胃の底が冷えた。


 開いたままの扉の奥から、声が聞こえる。


「そいつは、もう使い物にならない。片付けておいてくれ」


 聞き慣れた、優しい父の声だった。


 どうやって部屋まで戻ったのか、覚えていない。

 夜が明けるまで、首元の石を握りしめていた。


 朝食の席の父は、いつもどおりだった。

 女たちに囲まれ、よく笑い、よく食べる。


「あの、お父様。ハンナは……どこへ?」

「え?」


 父は、パンをちぎる手を止めた。


「誰? ハンナって」


「わ、わたしの侍女です」


「ああ」


 少し考えるふりをして、父は笑った。


「ここの女たちは、僕が雇ってるからね。やめてもらうことも、あるよ」


 それだけ言うと、父は女たちとの話に戻っていった。


(お父様は……この家は、おかしい)


 ◇


 披露宴を明日に控えて、屋敷じゅうが浮き足立っていた。


 衣装部屋の姿見の前で、リリアは息を詰めていた。

 背中で、紐が引かれる。また、引かれる。


「お嬢様、もう少しだけ」

「……まだ、締めるの?」


 コルセットが、あばらを内側へ押しこんでくる。

 これでは庭を走ることも、木に登ることもできない。


 仕上げに、頬と唇へ紅がさされた。

 鏡の中に、いつもの自分とは違う、上品に見える令嬢が立っている。


「お嬢様は、お母様似ですね。フィデリア様にそっくりです」


 満足げに笑った侍女たちが、次の衣装を取りに出ていく。

 廊下の向こうで、楽隊が音合わせを始めた。料理人の怒鳴り声。荷を運ぶ足音。


(今なら……)


 ハンナが最後に呼ばれた部屋。

 何か、残っているかもしれない。


 裾をたくし上げ、リリアはそっと衣装部屋を出た。


 父の部屋の扉は、細く開いていた。

 中には、誰もいない。こもった酒の匂いだけが、鼻をついた。

 卓には倒れた杯。床には、空の瓶が転がっている。


 背後で、床板が鳴った。


 後ろから忍び寄った大きな影が、リリアの肩を掴んだ。


「――フィデリア……か?」


 強烈な酒の匂いが、頭上から降ってくる。

 掴まれた肩に、爪が食いこむほどの力が込められた。痛みが走る。


「お、お父様……?」


 振り向こうとしたが、体が竦んで動かない。


 父はリリアの問いかけなど耳に入っていない様子で、もう一方の手で彼女の腕を固く掴み寄せた。

 引きずり込まれるように、薄暗い部屋の奥へと体が傾く。


「どこに行っていた……フィデリア」


 掠れた声で囁かれたのは、リリアの名ではなかった。


 恐怖で声が出ない。ドレスの胸元を締めつけるコルセットのせいで、うまく空気が吸えなかった。

 引きずられる足取りの中、倒れた杯が床を転がり、虚しい音を立てる。


「来るんだ……早く……」


 乱暴に部屋の中へと引きずり込まれそうになった、そのとき。


「リリアっ! アロフィス! あなた、なにしてるの!」


 母の声だった。


「……フィデリア?」


 母は答えなかった。

 立ちつくすリリアの手を取り、廊下へ引きだす。


「リリア、ごめんね。……酔ってるお父様に、近づいてはダメよ」


「は、はい……」


 足音が追ってきた。

 父の手が、母の腕へ伸びる。母が、それを払った。


「いてっ!」


 細い腕だった。強く払ったようには見えなかった。

 父は、自分の手を見下ろしていた。


「その気がないんだったら、来るな!」


 聞いたことのない、乱暴な声だった。

 扉が、叩きつけるように閉まる。


 見上げると、母の目に涙が浮かんでいた。

 つながれた手は、冷たかった。


 何をされかけたのか、リリアには分からなかった。

 肩に食いこんだ指の痛み。酒の匂い。

 残っているのは、それだけだった。


 部屋の前で、母はリリアの紅を指先でぬぐった。


「……お母様。お父様、怖かったし、変でした」


「……ごめんね、リリア。……私にも、わからないことが多いの」


 それだけ言うと、母は自分の部屋へ戻っていく。背中が、小さく見えた。


(ここにいたら、だめだ)


 その夜、リリアは寝台の下から革袋を引きだした。

 これまで貯めた小遣いのすべて。


 お母様に、言おうか。

 書き置きを、残そうか。


 どちらも、やめた。

 残せば、きっと追われる。


 夜明け前、家を抜け出した。


 ◇


 乗合馬車が巨大な鉄門を通り抜けると、途端に風が変わった。

 市街区の乾いた埃っぽさが消え、湿った、少し生臭い匂いが幌の隙間から流れ込んでくる。


(ここが、沿岸区。……一人で、来られた)


 向かいの席の老婆が、荷物を抱え直してリリアをちらりと見た。


「お嬢ちゃん、一人かい」

「はい」


 それきり、リリアは膝の上の革袋を握り直した。


 馬車が軋んだ音を立てて停まる。

 老婆が荷物を抱えて立ち上がり、乗客たちも急かすように降りていった。


 まだ残っていたのは一人の若い女性。

 仕立ての良い狩人服。

 光に透けるココアベージュの髪を無造作に束ねている。


 荷袋から焼き菓子を取り出し、綺麗な手つきで二つに割ると――大きいほうを口へ運んだ。

 細い指についた砂糖をそっと舐めると、残りを頬張る。


 リリアが目を奪われていると、にこりと微笑みかけ、立ち上がった。

 胸元で、小さなプラチナの徽章が陽を受けて光る。


(白金等級……!)


 父の胸にあるものと、同じ形をしていた。


 だが女性は、人混みを縫うように歩き、いつの間にか雑踏へ溶け込んでいた。


(……お父様は、どこへ行っても人に囲まれていたのに)


 小さな違和感を覚えながら、リリアも幌の外へ降り立つ。


 視界が、一気にひらけた。


 眩しいほどの青。

 港には大小さまざまな船がひしめき、白い帆が潮風を受けて揺れている。


 荷車を押す男たち。

 魚を抱えて走る子供。

 商人の怒鳴り声。

 鐘の音。

 焼きたてのパンの甘い熱気に、生臭い潮風が混じり合っていた。


 ――さっきの匂いは、これだったのか。


 御者台の男へ、銅貨を数枚差し出す。


「ん? お嬢ちゃん、子供は半額でいいんだよ」


 差し出された銅貨を見て御者が言ったが、リリアは小さく首を横に振った。


「……十三歳、です」


「なんだ、正直な子だねぇ」


 御者は笑いながら銅貨をジャラリと革袋へ流し込んだ。


「大人料金、毎度! そうだ、また魔物が出たらしいから街の外には出ないようになぁ!」


「はい」


「……はい、って。怖くないのかい?」


 リリアは、きょとんと御者を見上げた。


「お嬢ちゃん、迎えは?」

「だいじょうぶです」


 御者は手綱を握ったまま、しばらくリリアを見下ろしていた。


「気をつけてなぁ。可愛い娘が金を持ってうろつくのは……ちぃと危ない場所なんでなぁ」


「はい。ありがとうございます」


 リリアがペコリと深く頭を下げると、御者は困ったように頭を掻き、馬車をゆっくりと走らせていった。


 遠ざかっていく馬車を見送りながら、ふうと息を吐く。

 ブーツの底を通して、朝日に温められ始めた石畳の熱がじわりと伝わってきた。


 そのとき、広い通りの奥から、波のような歓声が押し寄せてきた。

 舞い上がった鮮やかな花びらが、風に乗ってリリアの頬をかすめる。


「嫁入り行列だ!」

「英雄アロフィスの新しい嫁さんだ!」


 なだれ込む人波に、リリアも足を止めた。

 黄金の装飾を纏った馬車が、沿岸通りをゆっくりと進んでくる。


 扉に刻まれた紋章が、目に入った。

 ――間違いない。


(お父様の……四人目の妻)


 窓から、少女が顔を覗かせている。

 自分より、いくつか上の年に見えた。

 沿道へ、屈託のない笑顔を振りまいている。


 胸の奥が、きゅっと締めつけられた。


 灯火に照らされた、腫れ上がった顔が浮かぶ。


 あの子は、平気なのだろうか。

 あそこへ行けば、幸せになれると思っているのだろうか。


 楽隊の音が遠ざかっていく。


 リリアは、革袋の口紐を結び直した。

 首元で、青い石が小さく揺れた。


「……わたしは、あの家に帰らないから」


 踵を返した、そのとき。


 お腹が、ぐぅと鳴った。


(……ご飯、食べないと)


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