プロローグ 今夜、逃げます
「今夜、お母様をこの檻から連れ出します」
夜半過ぎ、ソルゾラス邸の裏門は、いつになく警備が手薄だった。
父は、新しい求婚相手のもとへ出かけている。
母――フィデリア・ソルゾラスが、門の前で足を止めた。
「リリア、ここは……」
月を鈍く映す、鋼鉄の格子。
「開けます」
リリアは鍵のかかった鉄格子を掴む。
飴のように曲げると、人ひとり分の隙間ができた。
「――今のうちです、お母様」
「……あなた、そんなことまで」
フィデリアは、門の外へ出たところで立ち尽くした。
「彼に黙って外に出るのは……初めてだわ」
「もう、許可を取る必要はありません」
リリアは母の手を引いた。
フィデリアの足が、一歩だけ遅れる。
「……私も、あの人と同罪だわ」
視線が、屋敷の灯りへ戻っていた。
「彼を受け入れて、増長させていたのは、私だもの」
「調子に乗ったのは、お父様自身です」
リリアの声には、迷いがなかった。
「もう、人を人と思っていません。他人は駒、若い女は欲の捌け口。……実の娘にすら」
フィデリアが、唇を噛んだ。
繋いだ手に、リリアが力を込める。
「数えきれない人命が失われました。その罪は、償わせなければいけません」
握られた手を、フィデリアが握り返す。
「……もっと早く、あなたとここを出るべきだったのね」
裏門の外には、幌馬車が一台。御者台には、初老の男が一人。手綱を握ったまま、こちらを振り向きもしない。ランタンが、ひとつ揺れている。
「今は退きます。一気に終わらせるために」
リリアは母を馬車に乗せ、自らも乗り込む。
振り返らなかった。
屋敷の灯りが、遠ざかっていく。
◇
自由都市、ギルド酒場。
「せめて、顔を見せてはくれませんか? あなたに会うために、僕は――」
跪く男を、酒場中の視線が捉えていた。
自由都市の英雄、アロフィス・ソルゾラス。竜殺しの二つ名を持つ男が、白銀の甲冑を纏った冒険者の前で頭を垂れている。
女が、兜に手をかけた。
留め具の外れる音が、やけに大きく響いた。
ココアベージュの髪が、こぼれるように肩へ流れる。日に灼けたことなど一度もない白い肌。化粧気はない。ないのに、燭台の光がその頬でひとつ余計に灯って見えた。
誰かの手から、木のジョッキが落ちる。拾う者はいない。
弦を弾いていた男の指も、止まったままだった。
「――ああ」
アロフィスの喉から、感嘆が漏れる。
「やはり、あなたは美しい」
立ち上がりかけて、慌てて跪き直す。その所作ひとつに、酒場のあちこちから歓声と口笛が上がった。
「あなたほどの女性に釣り合うのは、僕しかいないでしょう」
アロフィスは、真っ直ぐに女を見上げた。
「うちの妻たちも、きっとあなたを気に入りますよ」
微笑みは、揺らがなかった。
「本気で愛しています。だから――僕の五人目の妻になってほしい」
女は、口を開く。
「……あなたの家は、もう、それどころでないでしょうに」
ため息をつくと、次の瞬間、姿が消えた。
入口にも、階段にも、窓の外にも。
すぐそばのテーブルでは、蜂蜜焼きの皿が空になっていた。
その隣に、絹のハンカチが一枚。『ごちそうさまでした』と、走り書きで。
酒場に笑いが広がる。アロフィスも頭を掻いて笑った。
「参ったなぁ。彼女の居場所を突き止めるだけで、半年分の稼ぎが飛んでしまいました」
カウンターの隅で、老いた冒険者がぽつりと呟いた。
「昔は一途な男に見えたんだがなぁ……」
テーブルで一人、酒をあおる男が吐き捨てる。
「ざまぁ見ろだ。……外面だけの人殺しが」
苛立ちは、笑い声に紛れて消えた。
そのとき。
酒場の扉が勢いよく開く。
「アロフィス様!」
息を切らせた従者が、一通の封書を差し出した。
見慣れた家紋の封蝋。中の紙を広げ、数行読んだところで、アロフィスの表情が止まった。
「……離縁状?」
酒場が静まり返る。
「馬鹿な。金に困ったことなんて、一度もさせていないのに」
紙を握る手に、力が入る。
「あいつは、僕がいなければ生きていけないはずだ。……誰が手引きした」
従者は、恐る恐る答えた。
「リリアーヌお嬢様です」
「リリアーヌが……?」
アロフィスは、言葉を失った。
妻が去る理由も、娘がそれを助けた理由も、何ひとつ理解できない。
やがて、従者へ向き直った。
「東の街道だ。この時間に門を抜けられるのはそこしかない」
「は、はい」
「傭兵団を出せ。なんと言おうが、妻と娘を連れ戻せ」
従者が駆け出そうとして、足を止めた。
「あの、離縁状は……」
「見なかったことにしろ」
アロフィスは封書を懐へ押し込んだ。
「錯乱しているんだ。甘くしすぎた。外に出さなければ、じきに落ち着く」
◇
馬車の中、第一夫人フィデリアは窓の外を見ていた。星明かりの街道が、後ろへ後ろへと流れていく。
「リリア……怖くない?」
「怖いですよ」
リリアは前を向いたまま答えた。
「お父様を殺して、お母様に恨まれることが……一番怖いです」
「……恨まないわ。あなたにそれをさせるくらいなら、あの人は、私が殺します」
後ろから、蹄の音が近づいてきた。
フィデリアが振り返る。星明かりの下、白馬が土埃を巻き上げて追ってくる。跨る女の髪が、風にほどけて靡いていた。
馬は速度を落とさず、馬車の横に並んだ。
御者台の灯りが、その色を一瞬だけ撫でる。
――ココアベージュ。
女の背が、馬車の前へ出た。
フィデリアが、小さく息を吐いた。
「……あの求婚、断って来られたのね」
「作戦通りです。お陰で、時間ができました」
リリアは、初めて口の端を上げた。
馬車は、夜を裂いて進んでいった。
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