第16話 胡椒よりも
商館の奥、帳場の裏の部屋。
「ぐ……まだ頭がふらつく。くそっ、あいつらめ」
丸いあざのついた額を押さえるイーゴ。
「自業自得だろ。……貴族を甘く見過ぎだ」
「うるせえ。お前だって、護衛に気づいてなかったろうが」
「……俺、公爵家に謝罪に行ってくる。兄貴はどうせ行かないだろ?」
「勝手なことすんじゃねえぞ、テオ。怪我人が出てるのはこっちだ」
「先に手を出したのはこっちだろう。おまけに、あれだけの射手がいたんだぞ」
「この、腰抜けが! ここは身分関係ない自由都市だ。こっちも冒険者を雇う。あとは教会に金積んで訴えれば、こっちが正義になる」
◇
「二人とも、怪我は」
メイド長は、帳面を開かずに言った。
「ありません。……胡椒も塩も、買えませんでした」
ロッタが、答える。声が硬い。
「グレンス商会が、うちには売らないって。それに、あの若旦那が――」
「報告は受けています」
ロッタの口が、止まった。
その手が、前掛けをぎゅっとつかむ。
「ロッタ」
メイド長が、名を呼ぶ。
「よく連れて帰りました」
ロッタが、はっと顔を向けた。
「胡椒よりも、あなたたちが欠けたら、困ります」
前掛けを握る手が、ゆるんでいく。
「……はい」
メイド長は、そこで初めて帳面を開いた。
「リリア。笛は」
「あ、はい。ここに」
リリアが差し出すと、メイド長は受け取らずに首を振る。
「持っていなさい。今日みたいなときに、また鳴らすでしょう」
「……はい」
「もう休みなさい。あとは屋敷のお嬢様に話を通しておきます」
二人が下がるあいだに、メイド長はもう帳面に何かを書き入れていた。
◇
食堂に着いたのは、昼をだいぶ過ぎたころだった。
それでも、この屋敷の食堂は、いつ訪れても温かいものを出してくれる。
窓際の席に、先客がいた。
仕立てのいい旅装。卓の上に、皿が山と積まれている。
「あっ! メイさん。いらっしゃってたんですか?」
思わず大きな声が出た。
メイは顔を上げると、口元を拭いた。
「ふふ、メイド長に呼ばれてね。リリア、おつかれさま」
布を置いて、向かいの椅子を示す。
「一緒にどう?」
「は、はい! 是非!」
勧められるまま、腰を下ろす。
しばらくして、皿とスープの器が運ばれてくる。
そこには、ふっくらとした干物が載っていた。
「これ、今日、リリアが持ってきてくれたのよね」
「はい。港の人たちが、たくさん持たせてくれました」
「いろんなものを食べてきたけれど」
メイが、皿を引き寄せた。
「これは絶品だわ。旨味というのかしら」
言いながら、メイは二切れ目に手を伸ばしている。
早いように見えて、手つきは滑らか。マナーは完璧だった。
(冒険者なのに……生まれつきの貴族の人みたい)
メイの襟元が光った。プラチナの徽章。
リリアの手が止まる。
(同じ徽章でも……お父様とは、違う)
「どうしたの?」
リリアは周りを見回し、誰もいないのを確認すると、まずは遠回りに切り出した。
「グレンス商会のこと……ご存知ですか?」
「今日のことね」
「は、はい。あの、メイド長さまから聞いたのですか?」
「ええ。あなたのお陰で、ロッタも怪我なく逃げ出せたって。ありがとう」
メイは食器を置くと、軽く頭を下げた。
「いえっ。わたし、それくらいしかできないので……」
卓の下で、拳を握る。
(聞かないと)
小さく息を吸って、リリアは気掛かりを口にした。
「あの商会の男の人……わたしたちを見る目が」
続きが、喉でつかえる。
「まるで、父が女の人の奴隷を選ぶときみたいでした」
「……」
言葉が、あとからあとから出てくる。
「第四夫人の実家だというのは、本当なのですか?」
「……間違いないわ」
「じゃあ、わたしたちを捕まえようとした、あの人たちは……何をするつもりだったんですか? あの人とつながってる父は……」
それ以上は、声にならなかった。
「リリア」
メイが、背筋をすっと伸ばした。
「あなたが感じた通りよ」
「……!」
「あの商会は、じきになくなる。一線を越えたから」
「えっ!? なくなる……って?」
息を呑むリリアの目を、メイがまっすぐ見つめる。
「そこから先は、大人の仕事よ」
メイは、干物の皿を脇へ寄せた。
「でもね。今日、あなたは笛を吹いた」
「……はい」
「いい判断だったけれど、もう一つ、選択肢があってもいい」
「選択肢、ですか?」
「逃げる、助けを呼ぶ。……それができないときの、最後の手段」
「……それって、もしかして」
リリアは、膝の上の自分の手を見下ろした。
メイは小さくうなずく。
「リリアは、体を動かすの、嫌いじゃないわよね?」
「は、はい。お勉強よりも、庭を走ったり、木に登ったりするほうが、ずっと……好きです」
「それなら、わたくしと稽古しない? きっと、あなたの身を守る力になる」
リリアは、顔を上げた。
「やります。お願いします」
メイが、柔らかく微笑んだ。
窓からの日が、その頬にかかっている。
「今夜は、たくさん食べて、早く寝ること。……明日の日の出前に、浜辺で待ってるわ」
「はいっ」
「濡れてもいい服でね」
(……濡れても?)




