第10話 イカ
メイが、銛の先で水面を指した。
「わたくし、食べ物のかかった勝負は手加減できないの」
「……はい」
リリアは首を傾げつつ、銛を握り直した。
膝までの海水が、じわりと冷たい。
「あの、負けたらどうなりますか」
「あら」
少し考えて、メイは笑う。
「わたくしが、全部食べてしまうわ」
それは、罰なのだろうか。
「……がんばります」
夜の浅瀬に、月が落ちていた。
水面が揺れるたび、光が割れて、また繋がる。
その下を、影が横切っていく。
力任せに突き出した銛が、水面を叩いた。
跳ね返った海水が、顔にかかる。目に沁みた。
「――っ、冷たい!」
魚は、当たり前のような速さで、影の外へ抜けていった。
「大丈夫?」
「はい……また、逃げられました」
リリアは、濡れた前髪を払う。
「最初は誰もそう」
言いながら、メイが銛を引き上げる。
その先で、魚が一匹、跳ねていた。
水音は、ほとんどなかった。
「……すごい、何も聞こえなかった」
メイの口元が、ほころんだ。
「――そこに気づいたのね」
膝の高さの波を、押しのけもせずに抜けてくる。
波が、この人だけ避けているように見えた。
「肩の力を抜くといいわ」
「……はい」
肩に、手が置かれた。
「ひゃっ!」
首の後ろまで、かっと熱くなった。
「あら、ごめんなさい。冷たかったかしら」
「い、いえ、ちょっと、びっくりしちゃって」
メイの手が、肩から肘へ滑り下りる。
角度が、少しだけ変えられた。
「力で突かないの。ただ落ちるだけ」
「落ちる……」
「自分の重さで獲るのよ」
言われて、リリアは銛を握り直す。
最初に持たされたときより、ずっと重く感じた。
「その重さは敵じゃない」
メイは、離れながら言った。
水音は、やはりしなかった。
リリアは、息を細くする。
肩を落とし、指の力を抜き、呼吸に集中する。
やがて、自分の輪郭が、水に溶けていく感覚があった。
(……これ、知ってる)
得意なことだった。
(家出するときだって、誰にも見つからなかったもの)
波が腰まで来て、引いていく。
足の下で、砂がゆっくりと抜けた。
リリアは、動かない。
――そのとき。
波の下で砂が転がる音。左のほうで、藻が揺れている感触。
雲が流れ、月が抜けた。
水面が白く光り、足元の底まで見通せるようになる。
その光の中へ、白い影が滑り込んできた。
ゆらり、と身をよじる。
(……そこじゃない)
見えている影の、少し先。
そう思ったときには、腕が落ちていた。
どすん、と水底に響く音がして、水面が弾ける。
柄を握った手に、生きているものの力が伝わってきた。
水中で暴れている。
「――獲れました!」
振り返ったリリアの顔は、濡れたまま、笑っていた。
「メイさん、獲れました! わたし、獲れました!」
「あら、おめでとう」
銛を担いだまま、メイが小さく手を打つ。
「すごいわ。あなたには、もう備わっているのね」
その肩の銛の先で、魚が三匹、串刺しになって跳ねていた。
「……え、三匹も?」
思わず、拍手していた。銛を持ったまま。
「わたくし、人より少しだけ、たくさん食べるから」
照れくさそうに、目を逸らされた。
(す、少しだけ、かなあ)
というより。
リリアは、自分の銛の先を見る。
「あれ? これ、魚じゃない?」
銛を引き上げると、白く光る獲物。
メイが歓声を上げて駆け寄ってくる。
「わあっ! イカだー!」
「へ?」
「大好物なの! リリア、すごいわ!」
メイが抱きついてきた。
「もう、あなたの勝ちでいいわ! だから、このイカ、一緒に食べさせて! ライムに漬けて食べると、最高なの!」
ぎゅうぎゅう抱きしめられる。
抱きしめてくる腕は細いのに、まったく緩まない。
「い、いいです、いいですけど! メイさん、力が……」
「あっ……、ごめんなさい。この港でイカって貴重で、つい」
ぱっと腕が離れる。
メイは咳払いをひとつして、何事もなかったように籠を引き寄せた。
鼻歌まじりに、獲物を放り込んでいく。
リリアも裾を絞る。髪の先から、しずくが落ちる。
「さ、帰ってお夜食ね!」
振り返るメイの髪と肌は白銀の月明かりを返していた。
水を蹴って追いかけながら、リリアは笑っていた。
浅瀬を抜け、砂に足がつく。
(――あれ?)
リリアの足が、止まっていた。
波の音でも、船の音でもない。乱暴な、場違いな音。
「メイさん」
声を、落とす。
「あそこ、誰かいます」
メイが、リリアを見た。
――それから、笑った。
「……ええ。いるわね」
船着き場の、灯りの届かない場所。
積み上げられた木箱の陰で、誰かが屈み込んでいた。
浮き家の係留索に、手をかけている。
人影が、ゆっくりと立ち上がった。
メイの声が、低く落ちる。
「リリア、あなたは見学よ。後ろへ」
人影のほうへ、一歩。
「そろそろ、尻尾を出すと思っていたわ」




