潮騒へ続く道(4)
外房の町から戻って数日が経った。
稲舟区は普段と変わらない。今日も同じ時間に電車が鉄橋を渡っていく。
ガレージで潮風を浴びたバイクの手入れをしていたら、「また、バイクいじってるー」と背後から笑い声がした。
振り返ってみると、キヨさんとコウタがガレージのそばに立っている。麻紀は工具をその場に置いて立ち上がった。
「……キヨさん、退院したんですか。良かった」
入院の経緯は知らないが、今見る限りキヨさんは元気そうだ。麻紀の顔をみるなり、キヨさんは口元に手を当てて小さく笑う。
「やだよ、柏木さん。医者がちょっと気になるってんで、二、三日検査で入院しただけさ。コウタが騒いだみたいで、済まなかったねえ」
隣のコウタの頭を撫でながら、少しだけ申し訳なさそうに眉を下げた。
「ばあちゃん、ちゃんと帰ってきたよ、先生! 稲舟の神様はお願い叶えてくれた」
ニコニコと笑みを浮かべてキヨさんを見るコウタの顔は、安心と嬉しさに満ち溢れていた。
「そうだったんですか……大事にならなくて良かったですね。な、コウタ」
「先生の言う通りだった! さすが先生だ!」
そう言ってコウタは去り際に棒アイスをくれた。振り返って手を振る姿を見送って、麻紀も少し安心する。
(――願いが、こんなふうに叶うなら、それでいいんだけどな……)
安心したはずだったのに、胸の内にわずかなざらつきが残る。
頭上から照りつける太陽を睨みながら、ガレージの陰へ腰を下ろした。
(毎日、本当に暑くて……さすがにしんどいぜ……)
ため息をつきながら、溶けかけたアイスを頬張った。じわりと口の中が冷たくなって、ひとときの涼が喉を流れていく。
アスファルトから陽炎が浮かんで、木陰で休んでいる雷光と風月もひっきりなしに温くなった溜め水を飲んでは息を切らしていた。
風のない午後。
すっかりアイスが無くなった棒を口でもてあそびながら、何気なしにスマホの画面を眺めていた。暑さのせいか、画面に流れてくるものに興味が湧かない。
ふと、頬に涼しげな風を感じた。ゆっくりと顔をあげる。
「やあ、麻紀。今日も暑いね。僕はよく分からないけど」
ぽろりと、棒が口からこぼれ落ちる。目を見開いて、何度も目を擦った。
「なっ――!?」
「鳩が豆鉄砲でも食らったみたいな顔だね」
「坊、じゃない……柊也、いや、宗主!?」
そこに立っていたのは、少年――御子神柊也だった。色素を失った髪がやけに明るくて眩しい。
開襟シャツにスラックスはありふれた制服のようだったが、その装いが、かえって彼の輪郭を現実から浮かせていた。
「なんでこんなところにいるんだよ!」
あたふたしている麻紀を横目に、柊也は「僕だって外出くらいはするよ」と涼しい顔で答える。
重たげに細められたまぶたの隙間で、冷ややかなはずの灰青が、いたずらを見つけた子供のように愉快げに揺れていた。
「……それじゃあ、お邪魔します」
当然のように玄関をくぐっていく後ろ姿には、ただひたすらツッコミしか思い浮かばない。思い浮かぶのに、口がもつれて言葉にできないのがもどかしい。
「いや、なんで普通に上がろうとしてるんだよ……!って、そうじゃなくて! 成瀬さん! 成瀬さんは一緒じゃないのか!?」
丁寧に靴を脱ぎ揃える横で、麻紀は焦って問いかける。柊也はふと考えるような仕草を見せたが、敢えてそれに答えず、代わりに手に持っていたビニール袋を麻紀に差し出した。
「今日は手土産に、ジャンクフードと言うものを買って来たんだ。麻紀、こういうの好きでしょ? お昼は食べた? 僕はまだだよ」
半ば押し付けるように渡されたその袋の中からは、麻紀もよく知るポテトの油の香りと、ハンバーガーのソースの甘さが誘惑のように漂って来る。
その途端、盛大に腹が鳴った。
「……すげー、助かる」
どこか負けた気分になりながら、麻紀も靴を脱いで家へと上がり込んだ。
古い家屋の中は、相変わらずどこかひんやりとしていた。年々、夏の暑さは厳しくなっているはずで、実際、気温計は三十度を越えている。けれど、体感とは違うところで涼を感じるのは、この家の端々に宿る遠い記憶のせいかもしれない。
柊也はさも当然のように、台所の脇に置かれたテーブルの椅子に腰掛けていた。止まっていたはずの扇風機が、くるくると羽根を回しながら柊也の髪を揺らしている。
「ねえ、麻紀」
受け取った袋を台所で開けて、中の紙袋を取り出す麻紀の背中に柊也の声が響く。
「外房はどうだった?」
「報告書なら、ちゃんと提出したぞー」
結露のついた紙コップをテーブルに運びながら答えると、柊也は椅子の上で膝を抱えてこちらを見ていた。
「……君の主観を聞いてるんだよ。任務云々じゃなくて、あの場所でリアルに肌で感じた君の感想が聞きたいんだ」
柊也の少し眠たそうな灰青色の目が訴えかける。普段はどこか世間から外れた言動をするくせに、こういう時だけ空気が変わるのだ。
「……俺は律音さんみたいに、綺麗に順序立てて言えねえんだけど……」
紙コップをそこに置いて、麻紀は腕を組んだ。
目を瞑って、あの時感じた感覚を言葉にしようとする。喉元まで出かかっているのに、引っかかって上手く出てこない。
「なんつーか、よく知ってる空気、じゃなかった」
あれは夏の暑さや潮の匂い、それだけが原因じゃない。波打ち際、足元の砂が掬われて沈み込んでいくような危うい感じ――それでいて、どこか息苦しい。
「いつもと、違う……」
気を抜いたら、海に引きずり込まれてしまいそうだと思った。普段、そんな気配はどこにもないのに――。
「君に、その手の勘がちゃんとあって、安心した」
どこか皮肉が混じっていると思った。
確かに、頭を整理して推論を組む、と言う行為は得意じゃない。感覚から行く方が、ずっと掴みやすい。
そんな麻紀のそれすら、やや足りないと柊也は思っていたのだろうか。
(上司からの、俺の評価……)
情けなくなって頭をかく。
紙コップの中身をあおると、鈍い炭酸がシュワシュワと口の中で弾けた。
「真島カイトと言う人物を、麻紀は知っている?」
突然、話の向きが変わる。驚きつつも、首を捻って考えてみたが、聞いた事がない名前だった。
「最近、『ストリーム』って言う動画配信サイトで、この人物の動画が徐々に伸びを見せている」
柊也は椅子に載せた足を下ろすと、ポケットからスマホを取り出す。
麻紀が横から覗き込むと、パッと画面が明るくなり『真島カイト 奇異ちゃんねる』と、チャンネル名が目に飛び込んで来る。
一番上の動画には、『【ガチ】願いが叶う神社で奇跡起きた!』と、タイトルが表示されていた。
柊也が画面をタップすると黒い画面からフェードインして、見覚えのある神社の鳥居、そして真島カイトの顔が映し出される。
「あ……」
思わず漏れた声に、柊也はちらりとこちらを見て「知ってるの?」と問いかけた。
知っているもなにも、最後に寄った神社で会った男の横顔だ。
しかし、今はそこじゃない。
「……いや、後でいい」
短く返事をして、食い入るように画面を見つめる。
動画の内容は、千葉県の某所にある神社には、特殊な祈願方法があるらしいことから始まる。
その方法で願い事をすると、必ず願いが叶うらしい。しかし、その方法を知っているのは神社の関係者と、昔から町に住む者だけ。そして、祈願方法が特殊ゆえに恐ろしい出来事が起こるとも言われている――。
そんな内容が十五分に渡って動画に収められていた。




