潮騒へ続く道(3)
翌朝は八時に稲舟区を出発。近くのインターチェンジから千葉方面への高速道路を乗り継ぎ、二時間半ほどの道のりだった。指定された場所――封結点へ向かう。
海岸線の道路から少し離れた細い道を入っていくと、目印になる崩れかけた石碑が見えた。
「やっぱ、長距離の移動は腰に来るな……」
道端にバイクを停め、ため息混じりの独り言が零れる。夏の熱気に蒸れたヘルメットを外すと、さわさわと葉を揺らす音がした。その風が額の汗をさらって遠い潮騒に溶けて行く。
これから向かう場所――封結点は、彼岸と此岸の境目に当たる場所だ。歪みが生じやすく、放っておくと良くないものが滲み出す。
これの補正をするのが麻紀の渡守としての仕事のひとつだ。
人の背丈ほど伸びた草の間を分け入って、道無き道を、何度か訪れた時の感覚を頼りに進んで行く。その道すがら、ふいに愚痴が零れた。
「はぁ……これが国家公務員の仕事とはなー……地味過ぎるだろ……」
手の甲で目元の汗を拭う。
容赦ない夏の日差しが肌を焼き、湿度のこもった空気が呼吸を圧迫する。そうして歩みを進めていくと、やがて小高い崖の上にたどり着く。
そこから見える景色は、水平線と空がひとつに交わっていた。その隙間から、もくもくとした綿毛のような入道雲が立ち上がっている。
「あれか」
視線を向けた先に、何かあるように感じた麻紀はゆっくりとそこに近づく。
一見、何も無い。
しかし、麻紀は水平線と空の合間を、指で摘むような動きをして探る。きらりと光る糸――風に揺れる蜘蛛の糸に似たものを、ついと指で引っ張り手繰り寄せた。
その一瞬、全ての音が溶けて、辺りを静寂が包み込む。
「結構ヨレてっけど、規模はまだ小さいか。――坊のやつ、こんな小さな歪みまで良く観察してるよなぁ……」
呆れ半分、感心半分で呟きながら、引っ張った糸を掌の上にそっと乗せた。そして、まるで糸を撚るように両掌を重ね合わせる。
「理に触れ、巡りを辿り──ほつれを結び、理を継げ」
ゆっくりと擦り合わせると指の間からわずかな青白い光が漏れる。それが、封結点復旧のサインだ。
「……よし、そのまま戻れ……」
重ねた掌を開くと、途切れていた糸は撚り合わされ、ひと続きの流れを取り戻していた。
そして、ふわりと舞い上がると音もなく空気の中に溶けて消えて行く。
その様子を麻紀は黙ったまま見送って、静かに息をついた。
「まず一つ、か」
思わず苦笑が漏れた。それでも、一つ片付いたことにほっとする。
そうして一つ一つ、歪みと言うほつれを直していく。全ての仕事が終わる頃には、陽が西に傾き始める時間になっていた。
(やっていること自体、大したことねえんだけど……)
山陰に隠れた海岸線を走りながら、麻紀はため息をつく。ヘルメットのシールドを押し上げると、吹き付ける海風がやけに目にしみた。
大きくなってしまった案件を片付けるよりは、遥かに楽だ。しかし、麻紀の場合は守備範囲が広く、場所から場所までの移動にかなりの労力を要する。そこだけが、これらの要所を守る難点だった。
(ん……そう言えば、この近くにも封結点あったな)
辺りの風景を目にして、ふと記憶が甦る。今回の指示には含まれていない場所だが、確か立派な神社が目印と記憶している。封結点はその裏手の雑木林の中だったが、神社側からも入れたはずだ。
「ついでだ、見ていくか」
帰路に着く予定を変更して、次の交差点を左折する。しばらく走ると、やがて大きな赤い鳥居が見えて来た。手前にある砂利の敷かれた駐車場にバイクを止めて、急な石階段を見上げる。何段あるだろうか――と、途中まで考えて頭を振る。考えたら負けな気がした。
「この時期の獣道通るより、階段上がるほうがマシっしょ」
自分を鼓舞して階段を登り始めるが、今日一日の疲労が容赦なく足腰に溜まっているらしい。思っていたよりずっとキツくて途中、踏ん張り切れなくなって足を止めた。
大きく息をついて、ふいに後ろを振り返る。
「あ……」
そこから見える風景に思わず声が出た。
鏡のように滑らかな海面が、西陽を受けて燃えるような橙色に染まっている。寄せては返す波の一筋が、細かな黄金の砂を撒き散らしたように光り輝いていた。
眼下に広がる美しい景色に時間を忘れる。おかげで、少しだけ疲れが和らいだ気がした。
神門をくぐった辺りで「何度聞かれても答えられないって言ってるだろ」と言う声が響いてくる。
参道に入り、その脇に建てられた授与所の前に二つの人影があった。
「いい加減にしろよ、警察呼ぶぞ」
「まあまあ。そんなに怒らなくてもいいでしょ?」
制服姿の少年と、リュックを背負って首からカメラを下げた若い男が、周囲を気にする様子もなく言い争っている。
「質問に答えるだけ。それでいいんだってば」
リュックを背負った男は宥めるように言って一歩近づく。そのにやついた顔には悪びれた様子もない。
「それが嫌だって言ってるんだ。早く帰れ」
少年は乱暴に手を振り払った。眉間に深い皺が寄る。
「君、ここの神社の関係者なんでしょ? 知ってること、少〜しでいいから教えてよ」
リュック姿の男が食い下がると、少年はぐっと唇を噛む。
(……揉め事か?)
やや距離を置いて脇を通り過ぎた時、ほんの僅か、少年と目が合ったような気がした。
進んだ先の手水舎で柄杓を手にする。冷たい水で汗ばんだ手をすすぐと心地よかったが、未だ遠くから聞こえる口論が麻紀の心を波立たせる。
「ねえ、頼むよ〜」
「離せって……!」
先程の少年の表情が、一瞬、脳裏に甦る。
(――あの目……)
濡れた手のまま、無意識に踵を返していた。
やけに蝉の鳴き声がうるさい。
まとわりつく生ぬるい風が鬱陶しい。
湿気を帯びた空気が、どこか息苦しい――。
「あの、すみません」
麻紀が二人の話に割って入ろうとしたその時。
「何してるの、洋」
玉砂利が乾いた音がやけにはっきりと聞こえる。先程まで感じていた不快感が驚くほど鎮まって、一瞬だけ空気が凛とする。
夜の帳を切り取って仕立てたような長い黒髪が静かに揺れていた。西陽の橙を受けても銀の光沢を帯びて、柔らかく丸い瞳の目元にはどこか力強さが滲む。
「……ねえちゃん」
黒髪の女性が、少年――洋とリュックの男と間に静かに立つ。そして「お引き取りください」と言って丁寧に頭を下げた。
男はその態度に呆然としている。麻紀も同じだった。たった一言なのに、この空間を纏め上げるような気配があった。
女性はやがて、ゆっくりと姿勢を正すと麻紀の方に向き直る。
「何か御用でしょうか?」
そう言った彼女の表情はひどく穏やかで、なんだか肩すかしを食らったような気分になった。
「あ、いや、あの……。うん、そう、お守りを頂きたくて」
「では、こちらへどうぞ。どのようなお守りをご用命ですか?」
何もかも分かっているように、にこりと笑って彼女は授与所の方へと進んでいく。
洋と呼ばれた少年も、これをきっかけにその場から素早く立ち去った。残されたリュックの男は、分が悪そうに頭をかくとブツクサと独り言を言いながら参道からあっという間に姿を消した。
授与所の小窓を開けると、そこには様々な御守が並んでいた。船の安全祈願や豊漁と言うところに、海の近くの神社らしさがある。そして家内安泰、夫婦円満。麻紀には少し縁遠いものだ。
「えーっと……あ……じゃあ、これをください」
ちょうど、交通安全の御守があったので助かった。七百円を納めて、授与された御守をポケットにしまう。
「あの。この辺に結構大きめの石碑があるはずなんですが、ご存知ありませんか?」
本来の目的を思い出して、麻紀は本題に入る。
女性はやや訝しげな表情を浮かべ、ちらりと拝殿の奥の方に視線を向けた。
「裏手の雑木林の奥にあります……あまり人が立ち入るようなところではありませんが」
再び麻紀を見る目に、何かを勘ぐるような色が浮かんでいる。
完全に何か疑われている気配があった。
さっきのリュックを背負った男のせいか。
「実はちょっと様子を見てきて欲しいって、人に頼まれまして。それで、まだちゃんとあるかどうか、確認したいんです」
女性はしばらくの間、麻紀をじっと見つめていた。だが、やがてその目元がふわっと和らぐ。
「宜しければご案内しましょうか? あの辺は少し入り組んでいるので」
その申し出に麻紀は喜んだ。いつ行っても迷う場所だから、案内があるのは本当に助かる。
そうして二人は拝殿脇から奥へと鬱蒼と広がる雑木林の方へと踏み入れた。
草が途切れ、湿った土が剥き出しになった細道が、背の高い雑木林の奥へと手招きするように続いている。
「私はこの神社の巫女をしています、白石と言います。白石由良です」
先を歩く由良が、少しだけこちらを振り返った。
「俺は、柏木って名前です。それで……さっき居た学生は、弟さん?」
自然と、さきほどの話に戻る。
「はい。洋は私の弟です」
「……リュックの男は?」
「最近よくいらっしゃる参拝者の方みたいなんです。うちの神社……家の中の事までも根掘り葉掘り聞いてきて……だからと言って邪険にはできませんし。正直、困ってしまいますね」
由良は少し首を傾げると苦笑していた。
「この町も人が減って、神社への信仰も薄れゆくのを感じていて……」
その横顔に一抹の寂しさが滲む。
「だから、来て下さる方がいるのは、本当に嬉しいんです」
なるほど。それでリュックの男にも強く出づらかったのだろう。
それから二人は、黙ったまましばらく野道を進んでいった。やがて由良がふと立ち止まり「あ。ほら、あそこです」と指をさした。
確かにそこには麻紀が目指していた石碑があった。その道のりの呆気なさに、なんだか笑ってしまう。一人の時、あんなに必死に雑木林を掻い潜っていたのは何だったのだろうか。
「ははっ、こんなに近道なんだな。ありがとう、助かったよ」
立ち止まった由良を追い越して、麻紀は石碑に近づく。
やがて石碑の前で足を止めると、ゆっくりと目を閉じた。そして、また空をなぞるように指先を滑らせる――。
指先に糸の感触を捉え、目を開く。ひと続きの糸が、ほつれることなく静かに揺れていた。
その糸がきらりと光った瞬間、少し離れたところで由良が小さく息を呑み、わずかに首を傾げている。麻紀の指先を視線で追っているようだった。
「……良かった。ここは、なんもなさそうだ」
一安心した折りに麻紀が視線を足元へ落とすと、そこに何かが置かれていることに気づく。
「ん? これは……?」
不思議に思ってかがみ込むと、それは信楽焼の釉薬がムラになったような素朴な茶色味をしたものだった。掌になじむようなぽてっとした柔らかい形をした貝殻が、ひっそりと佇んでいる。
かがみこんだ麻紀の隣に寄ってきた由良が「あっ……」と僅かに声をあげる。
「これが何なのか、知ってるのか?」
問いかけると由良は小さく頷いた。
「たまに、ここに置いてあることがあるんです。父や祖母から、ここに貝殻が置いてあったら神社へ持ち帰るように言われています」
由良はそれを大事そうに拾った。
「だから場所を知っていたのか」
「ええ。それにこの雑木林は、昔から遊び場ですから」
辺りを見回すその表情は、愛おしいものを見る時のそれに似ていた。
「……でも、この石碑の向こうには行くな、と言われています。ここから先は、昔から人が近づかない場所だそうです。野犬や獣が出て危険だと聞いています」
ふいに風が吹いて木々がざわめいた。人々が陰口を言い合うように、低く葉が擦れ合う。
「ああ、そうだな。行かねえほうがいい」
麻紀は小さくそう言って、石碑に背を向けた。
「こっから先は――向こう側に繋がってる」
風の声を聞きながら、由良はどこか不安そうに雑木林の奥を見つめたまま、しばらく動かなかった。遠くでヒグラシが鳴く声だけが、静かに響いていた。




