潮騒へ続く道(2)
道場の戸締りを確認し、玄関に鍵を掛ける。カチリと木戸に金属が当たる音がしたと同時に、上着のポケットの中がブルブルと震えた。
淡く光るスマホの待受画面に『成瀬』と言う文字が浮かんでいる。通話に出て、耳に当てるより先に「柏木さん、いい加減にしてください!」と叱責する声が響いた。
「ひぇ……な、成瀬さん……?」
恐る恐るその名前を呼ぶが、電話口の成瀬慎一の声は収まるどころか勢いを増している。
「これ以上、貴方の傷病手当の申請は無理だと言ったはずでしょう? 支給には限度があるんです。それに、なんなんですか……現場に出る度に怪我して帰ってくるって言うのは! 分かってますよ、貴方のやり方に怪我がつきものです。しかし、限度があるでしょう!? 私も上から嫌味を言われているんです、こちらの身にもなってください!」
「ご、ごめんなさい!!」
「謝っても済みません!!」
まったくもう、と盛大なため息をつく成瀬のイライラが受話器越しに伝わってきた。
「あの、それで、今日はどんなご要件です……? 傷病手当の申請が無理そうなら、俺、今回は辞退しようかな〜……」
道場の木戸に手をついて、視線を泳がせる。傷病手当を傷ついてボロボロになってしまったジャケットの新調に当てようと目論んでいた。支給品手当は半年で使い倒してしまったので、今度の手当を当てにしていたのだが。
これが通らず自腹になると、かなり痛いことになる。アマドンで見た値段が脳裏をチラついた。
「……コホン、その話はまた後ほど。今日お電話したのは、宗主からの言伝についてです」
その言葉に麻紀は急に居住まいを正した。
「――坊が?」
表情にわずかな緊張が走る。
「っ、柏木さん、その呼び方はやめてくださいと言いましたよね!?」
すぐさま、叱咤が飛ぶ。
「あ、いや、すいません。つい……」
境内には誰もいないのに、目の前に成瀬がいる体で思わず何度も頭を下げてしまった。
チッと舌打ちが聞こえたのは、気のせいだと思いたい。
「貴方の管轄で『理の揺らぎ』が確認できたそうです。まだそれほど大きくはないので、今のうちに調整して貰いたい、と」
「場所はどこなんすか?」
「千葉の先端です。細かいことはこの電話の後に資料をお送りします。そちらのご予定は?」
そう問われて、頭の中でスケジュールが流れるように展開される。
「……予定、ないっすね!」
あっさりと返答して、呆れるくらい何も無い予定に少しだけ虚しさを感じた。
「では、明日にでも向かって頂けますか」
「了解!」
成瀬との通話を終えて、稲舟神社を後にする。すぐにメッセージアプリ――Lynkから詳細が送られてくる。それを軽く流し見てスマホは胸ポケットにしまった。
表通りに出る。ぼんやりと歩く麻紀の足元を、往来する車のヘッドライトが照らしては通り過ぎていく。
(そう言えば、さっきコウタが話してた『願いが叶う神社』も外房って言ってなかったか?)
言い知れない、わずかな違和感が走った。
ただの偶然かと思ったが、妙な引っ掛かりが拭えない。
無意識に歩みを進めるうちに、すっかり自宅の前にたどり着いてしまっていた。
明かりのない家屋を見つめ、ふと息を漏らす。
かつて暮らした生家は大所帯で、いつも賑やかさが絶えなかった。その玄関を潜れば、必ず誰かが迎えてくれる。温かい食事と、安心できる場所が当たり前のように用意されていた。
今の暮らしとは真逆。だから、人気のない我が家を見て寂しさを覚えてしまうのは、仕方がないとも言える。
そんな人気のない敷地の垣根から、突然、影がぬらりと現れ、麻紀は一瞬身構えた。
「――っ、びっくりさせるなよ。雷光」
ほっと息をつくと、大きな体がガサガサと草木を分けて、姿を現す。夜の闇に紛れてもなお、その青い瞳は怪しいほど光り輝いていた。
「家の敷地から出るなって、言っておいただろー」
雷光はちょこんと座り込み、呆れた声を上げる麻紀の顔を見上げた。その頭を撫でてやると、嬉しそうに目を細める。
「腹減ったのか? 今、 飯の準備するからなー」
そう言って玄関先を抜けて庭へ回り込む麻紀の後を、「待ってました」と言わんばかりに尻尾を振って雷光はついて歩く。
古い平屋の建物の横に、ガルバリウム鋼板で作られた新しめの小屋――ガレージが見える。閉じられたシャッターを開けると、中からムワッとした熱気が溢れてきた。
「風、風月」
熱気に顔を顰めながら、麻紀はもう一頭の犬の名前を呼んだ。すると中庭の方から眠たげな栗色の目をした、雷光と同じ種の犬が姿を見せた。
ほっとしながらガレージ脇の照明スイッチを入れると、煌々とした明かりがコンクリート打ちっぱなしの床にはね返る。夜の暗さに慣れた目には少しだけ眩しい。
奥には工具棚があり、オイル缶にパーツクリーナー、サビの浮いた工具箱、ブルートゥースのスピーカーなどが無造作におかれている。
二匹の為の食事の準備をしている間、雷光は落ち着きなく麻紀の足元を歩き回っていた。
余程、腹が減っているようだ。鼻先で何度も膝を押し上げてくる。
「はいはい、分かったよ。もうちょい待ってな」
軽く頭を押さえてやると、今度は尻尾を振りながらガレージの中を行ったり来たりし始める。
一方で風月は、少し離れた場所に腰を下ろしたまま動かない。ただじっと、麻紀の手元を見ていた。
「ほら。準備できたぞ」
麻紀はステンレスの容器に盛られたドッグフードを差し出す。しかし、二匹はすぐに食べようとはせず、麻紀の顔をじっと見ている。麻紀はその様子にふっと笑った。
「お前ら、お利口だな〜。よし、食え!」
そうして合図してやると、待ってましたと言わんばかりに目を輝かせて食事にありついた。その様子がなんとも愛らしくて、思わず、ずっと眺めていたくなる。
やがて、麻紀は中央に置かれたバイクを見やった。
黒の車体にくすんだオレンジがポイントカラーの愛車。その座席シートをぽんぽんと叩いた後、キーを差し込みエンジンを掛ける。
「明日は頼むぜ、相棒」
ギュルンッと低いエンジン音が響いて、ヘッドライトが煌々と光った。どこか乾いて焼けたオイルとガソリンの臭いが、息を吸うたび肺にじわりと染みる。
タイヤの空気圧、エンジンオイル、翌日の遠征に備えた日常点検を終える頃には、麻紀の腹の方がすっかり減ってしまっていた。
11月からは、月・水・金の21時10分更新となります。




