潮騒へ続く道(1)
*この物語は、渡守綺譚シリーズです。
前作として『眠る花に名を問う』を、小説家になろうに掲載、及び、同人誌にて頒布中です。
*本作は前作をご覧になっていなくても、お楽しみ頂けます。
*本作は同人誌にて完結する予定ですので、ご了承ください。
川に架かる橋の上を、鮮やかな黄色い電車が渡っていく音がした。
軋んだレールの音が遠くに消える頃、小さな神社の一角の古びた道場で彼――柏木麻紀は竹刀を振るう。
道着越しに、鍛え上げられた分厚い肩のラインが揺れる。がっしりした体躯の重みを一足の踏み込みに凝縮させ、建屋の床を骨組みから震わせた。
一通りの動作の後、麻紀はふっと短く息をつく。
下町に少し早い夕餉の匂いが漂う。
甘辛い煮物だの、魚を焼いているだの、そんな匂いだ。それに鼻をひくひくさせた猫がコンクリート塀の上をリズミカルに駆け出した。
川面の水は夕暮れの淡いオレンジ色に染まり、その上を小さな船が白い線を描くように横切って行く。
細い路地裏には、飼い主の歩調など気にする様子もなくリードをぴんと張ったまま、先へ先へと進んで行く子犬の姿。
その横を中学生くらいの少年たちが、あれこれと話しながら通り過ぎて住宅街に消えて行く。
道場では、子どもたちが素振りの練習を続けていた。麻紀は一人ひとりの動きを見て回り、丁寧に指導していく。
「振り下ろした後、腕がブレてる。ちゃんとここで、こうして止めろ。いいか?」
少し困惑している子どもの横で、麻紀の低く芯の強い声が響いた。
自らの竹刀を力強く振って見せると、刀身が空気を切り裂いてブンと鈍い音を立てる。
「こう、だ。やってみろ」と言われて、子ども――コウタが必死な顔で頷く。
喧しいくらいの蝉時雨が耳にまとわりつく。人気のない境内の木々は、傾きかけた太陽の日を浴びて長い影を地に落としていた。
「うん……うん。さっきよりずっといいぞ」
先程までの厳しかった声色が解け、同時に目元が緩んで、夕焼けに似た柿色の瞳が柔らかく弧を描く。
少し乱暴にコウタの頭を撫でているものの、その大きくて無骨な手には優しさが滲んでいた。
「うん!おれ、頑張る!麻紀せんせい!」
「あはは……そこは『うん』じゃなくて、『はい』だろ?」
コウタの笑顔に麻紀は眉を下げ、やや困ったように笑った。
賑やかな道場に明かりが灯る。ようやく外の暑さもひと段落、と、言いたいところではあったが、蒸した空気は未だに辺りに貼り付いていた。
汗まみれの稽古の後には、雑巾を絞るバケツの水が心地よく冷たい。
ふと見上げた空は深い藍色に霞んで、繁華街の眩しい光と薄く掛かった雲がそこに散らばった星をぼやかしていた。
「まき先生、お掃除終わったー!」
掃除道具を片付けたり、雑談したりする子どもたちをチラと見やった後、バケツの縁に絞った雑巾を引っ掛ける。
「――さて、と。おーい、今日はこれで終わりだ。暗くなってるから、みんな、気をつけて帰るんだぞ?」
道着の裾で汗を拭いながら、麻紀は声を張った。子どもたちの素足がバタバタと忙しなく床を叩き、蜘蛛の子を散らすように出入り口に小さな姿が吸い込まれていく。
終了の合図をきっかけに一層騒がしくなる道場の中程で、今日も変わらない様子を見せる子どもの姿に麻紀はふと安堵の息を漏らした。
「ねー先生、来週から夏休みだよ!」
背後から女の子の声がした。振り返るとリナがニコニコしながら袴の裾を引っ張っている。
「お、もうそんな時期か……早いもんだな。どっか行くのか?」
「ココちゃんと稲舟川公園のプール行く約束したよー」
「へえ、それは楽しみだな」
「ねえ、先生には、夏休みあるの?」
そんな風に問いかけられて、やや考え込む。
前回、長い休みが取れたのは何時だっただろうか。それを思うと「あればいいけどなぁ」と、つい口から漏れてしまう。
「先生はどんなお仕事してるの? 剣道の先生だけ? にーと、なの?」
「え、ちょ……そんな言葉どこで聞いて覚えたんだよ……あのな、先生は――」
そう言いかけてやめた。
こんな小さい子に説明したところで、分かるはずもない。
「……ニートじゃない、とだけ言っておく。ちゃんと仕事はしてるぞ!」
こほんと咳払いをして弁明する。本業があることだけは事実だ。
「先生が仕事してるところ見たことないって、婆ちゃんが言ってたよ」
リナとの会話にコウタが混じってきた。
「えっ!? キヨさんが!?」
「うん。毎日、犬と遊んで、竹刀振り回して、バイクいじって、飯食って寝てるって」
苦笑まじりに自分の頭をがしがしと掻き、麻紀は大きく息を吐いた。
間違いではない。確かに、その通りなのではあるけれど。それしかしてないと思われているのは、弁解のしようがあり過ぎる。
「……ま、傍から見りゃ、変な大人だよな」
自嘲気味に呟いて、コウタとリナを交互に見やった。
「そう言えば、ここ数日、キヨさん見てないけど……腰でも痛めたのか?」
そう問いかけると、さきほどまで明るかったコウタの表情にふと陰が差す。麻紀はそれを見過ごさなかった。
「……婆ちゃん、入院した。なあ、先生。神様っていると思う?」
「――なんでそんなこと、訊くんだ?」
「神様なら、おれの願い叶えてくれる。見たんだ、ストリムってやつで。何でも願いを叶えてくれる神様がいるって」
麻紀とリナはお互いに視線を合わせた。
「『貝殻の神社』の神様なら、必ず婆ちゃんを家に帰してくれると思うんだ。嫌だよ……婆ちゃんが帰ってこないかもしれないなんて、思いたくない」
泣きそうな顔をしているコウタを見て、麻紀はふぅと小さく息を吐く。そしてゆっくりかがみ込むと、目の前にある小さな肩に優しく触れた。
「お前、本当にキヨさんが大好きなんだなぁ」
俯いた顔がこくりと頷く。
「その『貝殻の神社』ってどこにあるんだ?」
「配信者の人は、千葉県の外側にあるって言ってた」
千葉県の外側――つまり外房だろうか。東京の端っこ、むしろ埼玉に近い場所にある稲舟区から外房まで行くとすれば、かなりの時間が掛かるだろう。
「んー……それはちょっと遠いな。近くなら一緒に行ってやれたけど、さすがに無理そうだ」
肩を竦めた麻紀を見て、コウタの鼻が赤くなる。
「じゃあ、婆ちゃんはもう帰ってこないの!?」
そんな風に詰め寄る顔は必死で、声は涙に滲んでいた。ぎゅっと握った拳が、細かく震えている。
「おいおい、落ち着けよ。……なあ、神様なら身近にいるだろ?」
「そうだよ。稲舟神社の神様じゃダメなの、コウタ」
麻紀の肩越しにリナが問う。
「だって、稲舟の神様は、願いを叶えてくれないかもしれないじゃん……!」
そう言ったコウタのことを、麻紀は酷く子どもらしいなと思った。インターネットの情報は、これくらい幼い子にとっては目の前にある大きな世界そのものだ。『真偽』以前にそこにあるものとして受け取ってしまう。信じてしまったとしても何の不思議はない。
「……なあ。神様ってのは、誰かの頑張りをいつも見てるもんなんだぜ。お前がさ、いつもこの道場で、俺に叱られながらも頑張って竹刀振ってるのを、見てないって思うのか?」
諭されてコウタは唇を噛んだ。道着の裾で目元をゴシゴシと拭う。
「多分、見ててくれてると思う……」
「な? 少なくとも俺が神様なら、コウタの願いは叶えてやろうって思うぞ」
「麻紀先生は神様じゃないでしょー」
ケラケラと鈴を鳴らすようにリナが笑った。
「おう。俺は神様じゃないけど、コウタと一緒に『キヨさんが元気で家に帰ってきますように』ってお願いはできるぜ?」
両手を合わせ、軽く頭を下げる仕草をしてから、麻紀はちらりとコウタの顔を覗き見る。
「……先生。おれ、今日の帰りに稲舟の神様にお願いしてから帰る……」
「じゃあ、わたしも一緒にお願いしてあげる! コウタのおばあちゃんが早くお家に帰ってきますように、って」
二人の間に躍り出たリナも、麻紀の真似をして両手を合わせた。
その後、リナとコウタが転がるようにして道場を出ていく後ろ姿を、眩しいものを見るような顔で見送った。
慌ただしい時間が過ぎ、道場の中はしんと静まり返る。
なんだかそれが少しだけ寂しいと思った。
次回更新は、10/31 21時頃を予定しています。
どうぞお楽しみに!!




