俊蔭(その2)遣唐使船
「容姿も美しく、才能のあることと言ったらたとえようもない。」などと言われ、父母は、
「眼でさえ二つあるのに、この子は一人しかいない。」などと言って、我を大切に育てていました。
そうこうして、わたしが十六歳になる年に、遣唐使船が出されることになりました。この度は、特に才能のある学問に優れたものを選んで送ることとなり、大使に藤原常嗣殿、福祉に小野の篁殿が選ばれ、わたしも召されました。
(836年7月、出発するも嵐に遭遇し、第3船難破廃棄、渡海は一旦中止し帰京。837年7月再出発するも難破、筑紫に戻る。副使小野篁、乗船拒否、隠岐島に流罪、と記録されています。)
父母の嘆き悲しむことと言ったら、まったくたとえようもありません。生涯にたった一人しかいない子なのです。朝に会って、その日の夕方帰りが遅いだけでも、血の涙を落とすほどであるのに、はるかかなたの地で、再び会うことも難しい道に出立しようとしている。父母も、わたしも、額を集め、涙を落として別れを惜しみましたが、とうとう船に乗ったのでした。
(日本海を船で渡るのは、ひどく危険なことでした。鑑真和尚が5度の渡海に失敗し6度目の渡海でようやく日本にたどり着いたが、日本に渡ると決めてから10年以上が経ち、苦労を重ねたために両目を失明していたことは、有名です。いったい何隻の船、何人の人が海に沈んだのかは、不明です。)




