07 山越えって、こんなに大変なの?
ファルケンを出てから、二ヶ月あまり。
夏の盛りはいつの間にか過ぎ去り、山道にはほんのりと秋の気配が漂い始めている。
「おい、アルジャン! 見てみぃ、絶景や!」
「あ、あそこ飛んでるでかい鳥、なにもんや?」
山に入ってからのコルネは、ご機嫌だった。
鼻歌まじりで進んでいく。さすがは山育ち、険しい斜面も軽やかな足取りだ。
対して、俺はといえば——。
「ぜぇ……ぜぇ……っ」
コルネにふたりの荷物をすべて背負わされ、必死の形相で彼女の後を追っていた。
俺の両親が住む「貿易都市ファルケン」を旅立ち、コルネの故郷である「ヴァルザック山脈」を目指す俺たち。
最初は本当に楽しかった。しばらくは平野部を馬車で移動していたからだ。流れる景色を眺めながら、ゆるゆると馬車に揺られる。のどかで楽ちんな、まるで観光旅行のような道中だった。
問題は、最初の山脈に差し掛かり、「ここからは徒歩で移動やで」となってからだ。
今朝、麓の宿を出発し、現在は夕刻近く。一日山道を歩きっぱなしである。
つらい。しんどい。死ぬ。
足が痛い。腰も痛い。肩に至っては重圧で千切れそうだ。
こんな拷問のような苦行は生まれて初めてだ。
そんな惨めな思いで限界を迎えていた、その時だった。
先を歩いていたコルネが、ぴたりと足を止める。
「……?」
「アルジャン。荷物を降ろせ。剣を構えろ」
「な、なに事です……!?」
「何か、おる」
コルネの低い声と同時に、ガサリと草陰が揺れ、一頭の鹿が姿を現した。
いや……鹿にしてはあまりにもでかい。馬ほどもある体躯に、ギラギラと赤く光る眼。ダラダラとよだれを垂らす口元からは、鋭い肉食獣のような牙が覗いている。
そいつは、低く唸りながらじっとこちらを睨みつけていた。
「ひぇ……っ」
情けない悲鳴が俺の口から漏れた。
鹿の魔物——「鹿ロード」だ。本で読んだことがある。
ここで、恐ろしい事実を白状しよう。
俺は一応、ギルドに登録した冒険者の「戦士」を名乗ってはいるが、本物の魔物と正面から対峙するのは、これが人生で初めてだった。
やだ、おっかない。怖すぎる。
膝の震えが止まらず、腰が引けて剣すらまともに抜けない。
そんな俺を背中に庇うように、コルネが数歩下がった。
「大丈夫や。ウチが相手する。お前はそこで剣を構えて立っていろ」
「た、盾代わりというわけですか……!?」
「ふふっ」
コルネが不敵に、静かに笑う。
「お前ごときに盾が務まるわけないやろ。せいぜい、鹿に踏みつぶされる雑草や」
言いながら、彼女は背の弓を素早く構えた。
「そ、そんなぁ!」
「まあ、気をそらせるくらいの効果はあるやろう」
次の瞬間、鹿ロードが猛然と跳躍した。
巨体からは想像もつかないスピードで、一直線に俺たちに向かって突進してくる!
速い——!
コルネは風のようにさっと横へ飛びのいた。
直線上に残された俺の目前に、鹿ロードの牙が迫る。
(ぶつかる——っ!!)
恐怖のあまり、俺は無ざまに尻もちをついた。
——しゅぱっ!
空を割る鋭い風切り音。
ズシンッ!!
「……っ!?」
絶望に目を瞑った俺の目の前で、鹿ロードの巨体が激しい煙を上げて崩れ落ちた。
見れば、そのこめかみには深々と矢が突き刺さっている。
「ぐるるるっ……!」
だが、さすがは魔物。まだ死んでいない。血を吐きながら、なおも立ち上がろうと前脚を掻く。
そこへ、空中で翻ったコルネが飛びかかった。
手にした短剣を、躊躇なく鹿ロードの首筋深くへ突き立て、一気に切り裂く。
「ぐひぃっ……!」
鹿ロードは最後の悲鳴を上げ、ガクリと動きを止めた。
目の前には、鮮血で地面を染める巨体。
俺は開いた口が塞がらず、腰が抜けたまま動けなかった。
そんな俺をよそ目に、コルネは短剣の血を慣れた手つきで拭いながら、上機嫌に言った。
「よし、ええ肉が手に入ったわ!」
「え……た、食べるの……? これを……?」
「あたりまえや。こんな上等な肉、捨てていくわけないやろ」
「ひぇぇ……」
「なにが『ひぇぇ』やねん。お前は箱入りのお嬢ちゃんか?」
◇
「ほんなら、さっそく解体するで」
「か、解体……!?」
「そうや。アルジャン、ロープ出し」
俺は荷物からロープを引っぱり出し、コルネに手渡した。
コルネは鹿ロードの両後ろ足を括ると、近くの大木の枝へロープをかけた。
「アルジャン、その端持って思いっきり引っ張り上げろ。鹿を吊るすで」
「は、はいっ!」
俺はロープを握り締め、全体重をかけて引いた。
「ぐっ……ぬぬぬっ……!!」
重い。腕と背中の筋肉がちぎれそうだ。
鹿ロードが完全に宙吊りになったところで、俺とコルネは二人がかりでロープを幹に固く結びつけ、固定した。
「さてと」
短剣を片手に、血で濡れた鹿の巨体へとじりじりと近づくコルネ。
「あ、あの……では、あとはよろしくお願いします!」
惨劇から逃れようと後ずさりした俺の襟首を、コルネの手がガシッと掴んだ。
「何言うてんの? 今からお前に鹿の解体教えてあげるから」
「ひっ……! え、遠慮しておきます……!」
「お前に遠慮する資格なんかあるかいな」
「ひぇぇ……」
こうして俺は、半ば力づくで鹿ロードの解体を手伝わされる羽目になった。
「アルジャン、ここ持っといて」
「そうや、皮を外側に引っ張りながらそこ抑えとくんや」
矢継ぎ早に指示を飛ばしながら、コルネは短剣の刃先を滑らせ、スルスルと解体を進めていく。
迷いのない、恐ろしいほど手慣れた手つきだ。さすが山育ちの狩人というべきか、大したものである。
——しかし、作業の現実は過酷を極めた。
皮の裏から溢れ出る生温かい血。鼻を突く強烈な生の匂い。
俺の手は、自分の血でもないのに真っ赤に染まっていた。
「よし! 終わったで、おつかれさん」
「ふひぃーーー」
コルネが満足そうに宣言した瞬間、俺の膝から力が抜け、満身創痍のまま地面へとへたり込んだのだった。
◇
「丁度ええから、今日はここで野宿しよか」
「野宿!?」
「なんや、大声出して」
「あの……コルネさん。宿は……?」
「こんな山奥に宿なんてあるわけないやろ?」
「そ、そうですよね……」
「どうしたんや?」
「いや、俺、野宿はちょっと無理というか……汚いし、危険だし、怖いし……」
「……」
「……」
バシィッ!
「まずは焚き火の準備や! 木の枝集めてこい! 今すぐや!」
コルネに尻を思いっきり蹴られ、俺は悲鳴を上げて跳び上がった。
(うすうす気づいてはいたけど、怖くて確認できなかった……。野宿だなんて、俺の辞書には無いんだ。無いったら無いんだ……!)




