22 獣人の町へ、やってきました
目の前いっぱいに、広大な平原が広がっていた。春の暖かな日差しを浴びて、草原が風に揺れている。ところどころには色鮮やかな花が咲き、遠くでは数頭の鹿がのんびりと草を食んでいた。さっきまで歩いていた山の緊張感が嘘のような、穏やかな景色だった。
そしてその平原の遥か彼方には、青く霞む山々が幾重にも連なっていた。
「いいところですねぇ……」
思わず頬が緩む。
「そうやろ」
隣に立ったコルネが、どこか誇らしげに笑った。
「ここからは、ウチら獣人が暮らす土地や」
「へえ……」
俺は改めて広大な平原を見渡した。
すると、コルネが遥か彼方に連なる山並みを指さす。
「そして、あの山々が『ヴァルザック山脈』。ウチの故郷がある場所や」
(あれが、ヴァルザック山脈……なんて雄大なんだろう)
思わず息を呑む。
コルネはしばらく愛おしそうにその山々を眺めていたが、やがて視線をあげる。
「……やっと」
青空に向かって大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
「やっと、ここまで帰ってこれた」
その横顔は、今まで見たどんな姿よりも深く安堵しているように見えた。
◇
俺たちは平原の真ん中に伸びる道を歩き続けると、夕方ごろ、前方に大きな町が見えてきた。
「あそこが『ベルヴェディア』や。あそこで装備を整える」
「はい」
「それから——」
コルネが足を止め、意味深に俺を見上げてくる。
「ここでは人間の立場は弱い。お前の身の安全のために、お前はウチの奴隷で通すからな」
思わず、コルネの何倍も恐ろしい獣人たちを想像してしまった。
「わ、わかりました……」
声が情けなくうわずった。
◇
町に入ると、あちこちに頑丈な石造りの家が立ち並び、様々な獣人たちが行き交っていた。家の前では無邪気に獣人の子供たちが遊んでいる。思っていたよりもずっとのどかな雰囲気に、俺はそっと胸をなでおろした。
通りを進んでいくと、すれ違う獣人たちが珍しそうに視線を送ってくる。
「みんな、お前が珍しいみたいやな」
コルネがおかしそうに笑った。
早々に宿に入ると、カウンターで若い女の獣人が出迎えてくれた。栗色の髪の上には、ぴんと尖った獣耳が覗いている。狼人族だ。
彼女はコルネの後ろに立つ俺を見ると、「ほう」と声を上げた。
「あんた、人間連れてるなんて珍しいな」
「ああ。こいつはウチの奴隷や。旅の供をさせとる」
「ほう……」
またしても彼女は感心したように声を上げ、舐めるような視線で無遠慮に俺を検分する。
「へえ、人間の奴隷か。珍しいもん連れとるなあ」
ははっと豪快に笑う。やはり、この土地では人間の俺の方が珍しいらしい。
部屋に荷物を置き、一息ついてから、俺たちは宿の食堂で夕食を取ることにした。
食堂の席に着き、周囲を見回す。そこそこの客でにぎわう店内には、狼人族に猫人族、さらには兎人族や蜥蜴人族らしき姿もある。全員が獣人だ。どうにも慣れない。
挙動不審な様子できょろきょろとしてしまう俺を、周りの客も珍しそうに見つめてくる。たまに目が合うと、相手の瞳は好奇心で鋭く光っていた。なんだかおっかなくてたまらない。
「故郷に帰ってきたーって感じるわぁ」
逆にコルネはすっかりリラックスモードだ。
「おまちどうさん」
狼人族の給仕の女性が料理を運んできた。しなやかな黒髪に犬耳を覗かせた、妖艶な雰囲気の漂うお姉さんだ。
彼女は熱々の料理が載った皿をテーブルへ手際よく並べながら、俺たちを失礼なくらい無遠慮にまじまじと見まわした。
「あんたら、見ない顔やな。どこから来たんや?」
「南からや。今朝、山を抜けたばかりや」
コルネが答える。
「へえ、それはご苦労さんやったな。……で、どこ行くんや?」
彼女はテーブルに身を乗り出すように両手をつき、コルネと気さくに話し込み始めた。その瞬間、なんだか周囲が静まり返る。見回すと、周りの客が興味深げにこちらに耳を傾けていた。
「『ヴァルザック山脈』や。故郷に帰るんや」
「『ヴァルザック山脈』の故郷て! あんた、もしかして……?」
「ウチはヴェルザール族、族長バシュラの娘や。コルネって呼んで」
「ヴェルザール族! 族長の娘!?」
給仕が驚きの声を上げると同時に、食堂内に大きなどよめきが走った。
「これは失礼しました、コルネ姐さん。ウチはガルム族のヴァネッサ・ガルバ言います」
「うん、よろしく。ヴァネッサ」
なんだろう、コルネのネームバリューが想像以上の威力なのだが。心なしか、コルネも誇らしげに胸を張っている。
「ところで……姐さん。こちらのお連れの人間の方は?」
ヴァネッサが尋ねた瞬間、再び食堂が静まり返った。
「こいつはアルジャン。ウチの奴隷や」
「奴隷!」
ヴァネッサが俺をまじまじと見る。またしても客たちの視線が集中した。
「えらい男前やから、てっきり姐さんの男かと思いましたわ」
「ちゃう。ただの奴隷や」
そっけなく答えるコルネ。
「ただの奴隷……!」
ヴァネッサの黒い瞳が、怪しく光ったように見えた。
「そしたら……ウチが誘っても?」
俺から目を逸らさず、ヴァネッサが艶っぽく囁く。
「別にかまへん」
コルネ! かまへんって何だ!
ヴァネッサの目が一層の輝きを増す。肉食獣が獲物を狩るときの目だ!
やだ、怖い!
「ごめんなさい!」
条件反射で、勢いよく頭を下げた。
ヴァネッサは一瞬あっけにとられたが、すぐに艶やかに笑った。
「ははっ、振られてしまいましたわ」
そしてひらひらと手を振る。
「ほな、ゆっくりしていってくださいね」
そう言って別の席へと去っていった。
「別について行ってもよかったんやで?」
コルネがいたずらっぽく口元を緩める。
「いやいやいや! コルネさん、俺を勝手に売るのやめてください!」
「わかった。今後は気を付ける」
そう言うコルネは、なぜか少しだけ機嫌がよさそうだった。
◇
その夜。
眠りにつこうとしたとき、ふと自分の体に微かな違和感を覚えた。
腹のあたり。
今までずっと感じていた、どこか重苦しい圧迫感がすっきりと消え去っている。
俺は身体を起こすと、服をぐっとめくり上げて己の腹をまじまじと見つめた。
窓から差し込む月明かりが、俺の腹部を静かに照らし出す。
(腹筋が割れている……)
我ながら、ずいぶんとたくましくなったものだと感心した。苛烈な山越えや命懸けの戦いを潜り抜けてきた証だ。
だが、感動すべきはそこではなかった。
これまで俺の腹に黒々と嫌な存在感を示していた『服従の判子』の印影が、まるで最初からなかったかのように綺麗さっぱり消え失せているのだ。




