18 逃げるより、迎え撃つことにしました
「まずいことになった……」
「え……?」
「あいつらは……ただの『斥候』や」
「て、手先……ですか?」
「ああ。改め直して、群れごと襲ってくる……!」
コルネがゆっくりと俺の方へ振り向く。その瞳には焦燥の色が濃く滲んでいた。
「三、四匹程度ならウチ一人でもなんとかなる。でも……本隊の群れで来られたら、ウチの手には負えへん」
衝撃の告白だった。
あの強く頼もしいコルネが、青ざめた顔で震えている。
コルネでも、敵わない——?
その事実を理解した瞬間、今度は俺の全身がガタガタと酷く震え始めた。
これまでずっと、どんな魔物が現れてもコルネが俺を守ってくれた。彼女さえいれば大丈夫だと、心のどこかで完全に依存していたのだ。
その大前提が、今、脆くも崩れ去った。
——食い殺される。
死のイメージが脳裏をよぎり、とてつもない恐怖が津波のように押し寄せてくる。
怖い。恐ろしい。死にたくない。
「アルジャン……お前だけ、逃げろ」
ふいに、頭上から掠れた声が聞こえた。
ハッと息を飲んでコルネを見上げる。
彼女の顔は蒼白なままだったが、その瞳だけは強い意志の光を宿し、俺をじっと見つめていた。
「ウチがここで時間を稼ぐ。お前は今すぐ、全速力で山を下りろ」
「で、でも……っ! そんなことしたらコルネさんが……!」
「大丈夫や。ウチ一人なら、逃げようと思えばなんとでもなる」
そう言ってコルネは、俺を安心させるように小さく口元を緩めた。
けれど——分かってしまった。
コルネは、嘘をついている。
彼女は俺を逃がすために、ここで命を捨てる覚悟を決めたのだ。
俺だけなら。
今すぐ走れば。
もしかしたら助かるかもしれない。
一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ、足が山の麓の方角へ向きかけた。
だが——そんな考えは、発生した次の瞬間には激しい自己嫌悪とともに吹き飛んでいた。
嫌だ。コルネを死なせたくない。
絶対に、彼女をこんなところで死なせるわけにはいかない。
俺の心を占めたのは、契約でも義務でもない、純粋な想いだった。
二人で生き伸びる。絶対に、二人揃ってここを突破するんだ。
怖い。
今にも逃げ出したい。
それでも俺は、必死に頭を働かせた。
狼ロードの群れ。およそ十匹、あるいは二十匹以上。
むざむざ取り囲まれれば、全方位から一斉に襲いかかられて一たまりもない。多勢に無勢だ。ただ山を下りて逃げたところで、脚力の差ですぐに追いつかれ、背中から食い殺されるのが落ちだ。
普通に戦っても勝てない。普通に逃げても逃げ切れない。
なら、どうする?
何かあるはずだ。
何か——。
その時。
今日通り過ぎた、あのボロボロの建物が脳裏に浮かんだ。
あそこなら。
多対一の状況を遮断できる。
あそこへ狼どもを引きずり込み——迎え撃つ。
「コルネさん」
声はまだ少し震えていた。
コルネが俺を見る。
俺は震える手を握り締めた。
「……あの山小屋へ戻りましょう」
◇
俺たちは大急ぎで野営地を撤収し、山小屋へと戻ってきた。
ここで、狼ロードの群れを迎え撃つ。
そう考えて改めて山小屋を見つめると、あんなにも頼りなく見えていたぼろ小屋が、まるで頼もしい砦のように見えてくるから不思議だった。
コルネも俺の隣に立ち、険しい表情で山小屋を見上げる。
「で、どうするつもりや?」
俺は山小屋を見上げたまま、力強く宣言した。
「……作ります」
「なにを?」
「狼ロードを殺すための、砦を」
「砦……?」
「はい。ふたりであの屋根の上から迎え撃ちます。高い所からの攻撃は絶対的に有利ですし、あいつらもあの高さまで簡単には跳び上がれないはずです」
息を整え、俺はコルネへ具体的に指示を出した。
「コルネさんは、屋根の上の状態を確認してもらえますか? 俺たち二人が乗って戦えるだけの強度があるか、それと狼ロードが登ってこられそうな場所がないか見てほしいんです」
「わ、わかった。アルジャン、お前は?」
「俺は小屋の周りを固めます」
「了解や!」
コルネは軽やかに壁を蹴り、さっと小屋の屋根へ躍り上がった。
その背中を見届けると、俺もすぐさまリュックからショベルを取り出した。
まずは小屋の周囲に壕を掘る。
狼ロードが屋根へ跳び上がるには、必ず助走が必要になる。
ならば、その踏み切り場所そのものを潰してしまえばいい。
ザクッ、ザクッと無我夢中で土を掘り返していく。
腕が痛い。
腰も痛い。
握り締めたショベルの柄が擦れ、手のひらにはいつの間にか血が滲んでいた。
それでも、手を止めるわけにはいかなかった。
止めれば、死ぬ。
俺だけじゃない。
コルネも死ぬ。
「くっ……!」
歯を食いしばり、再びショベルを土へ突き立てる。
そうして小屋の周囲に壕を巡らせると、今度は底へ切った枝や丸太を乱雑に放り込んでいく。これなら落ちた狼ロードも簡単には駆け上がれないはずだ。
もちろん、すべてを壕で囲うわけではない。
あえて何箇所か、狼ロードが走り込める場所を残しておく。
そこには細いワイヤーを低く張った。
罠を仕掛けるなら、ただ相手が引っ掛かるのを祈るだけでは駄目だ。
——引っ掛かる場所へ、相手を誘導する。
これまで何度も罠を作り続けてきた俺が、いつの間にか身につけていた考え方だった。
「アルジャン!」
屋根の上から、コルネの声が飛んできた。
「こっちは大丈夫そうや! 見た目よりずっと頑丈やで!」
「狼が登ってこられそうな場所は!?」
「何箇所かある! こっちと、あっち。それから裏側や!」
コルネが指差す場所を順番に確認する。
「分かりました! そこを塞ぎます!」
鋸と手斧を使って手頃な細木を数本切り倒し、板や丸太と組み合わせて足場になりそうな場所を塞いでいく。
ただし、一箇所だけは残した。
狼ロードが屋根へ上がろうとすれば、自然とそこへ向かうように。
「コルネさん! その板を屋根の端に打ちつけてください!」
「これか!?」
「はい! そっちは登れないように完全に塞いでください!」
「了解や!」
金づちの音が山中に響き渡る。
俺が考え、指示を出す。
コルネがそれを聞き、迷うことなく動く。
「アルジャン! 次は何したらええ!?」
「その丸太をこっちへお願いします!」
「これやな!」
「はい!」
壕を掘り、ワイヤーを張り、板を打ちつける。
使えそうなものは何でも利用した。
二人で夢中になって作業を続けるうちに、陽はいつの間にか大きく西へ傾いていた。
「はぁ……はぁ……」
俺は膝に手をつき、荒い息を吐いた。
身体中が痛い。
もう腕なんて上がらないくらい疲れている。
それでも、まだ終わりじゃない。
俺はゆっくりと顔を上げた。
視線の先にあるのは山小屋。
そして——その背後にそびえる、あの巨木。
太い幹から伸びた巨大な枝が、山小屋の屋根を覆うように広がっている。
俺はその枝をじっと見つめた。
「……」
頭の中で、ひとつの仕掛けを組み立てていく。
できる。
いや——やるしかない。
「……コルネさん」
「なんや?」
屋根の上のコルネがこちらを見る。
「もう一つだけ、やっておきたいことがあります」
「まだあんのか!?」
「はい」
俺は背負ってきた荷物へ目を落とした。
「これがたぶん、一番重要です」
◇
満月が山小屋を明るく照らしていた。
小屋を囲むように設置した篝火が、暗闇を切り裂くように煌々と燃えている。
静まり返った森の中、俺とコルネは山小屋の屋根に腰を下ろし、一枚の毛布を分かち合って肩を寄せていた。
「来たで……」
コルネが耳元で小さく呟いた。
その瞬間、周囲の茂みが微かに揺れた。




