16 雪解けと旅立ち
彼女の隣に、もう一人の人影があることに気づいて足が止まった。
背中に長旅の埃をまとった、一人の男。
マリアはその男を前に、見たこともないような泣き笑いの表情を浮かべていた。
「ずっと……ずっと待っていたの……っ」
絞り出すような声とともに、彼女は躊躇うことなく男の胸へと飛び込んだ。
「すまなかった、マリア。もう……お前を一人にしない」
男は強く、強く彼女を抱きしめる。
俺は手に持った紫の花を握りしめたまま、その場をそっと離れた。
◇
夜。俺とコルネは部屋で旅立ちの準備をしていた。
明日の朝、俺たちはこの町を出る。
この冬の間、ずっと過ごしてきた思い出の詰まった部屋だ。散らかった荷物をひとつずつリュックへ詰めていく。
ふと、視界が滲み、涙が一粒こぼれ落ちた。
一度あふれ出たものは止めようがなく、次から次へと涙が溢れて止まらなくなる。
好きになった人が、自分ではない誰かと結ばれる。
その事実がこんなにも、胸が張り裂けるほど痛いものだなんて。十五年間生きてきて、初めて知った。
「うぅ……っ、うっ……」
俺は膝から崩れ落ち、そのまま床にへたり込んだ。
コルネは何も言わず、俺の背中を、ずっと静かにさすり続けてくれていた。
◇
「アルジャン。コルネ。元気でね」
「マリアさん……長い間、本当にありがとうございました」
宿の前で、俺たちは短く別れの言葉を交わした。彼女の表情からはもう、冬に見せていた儚い寂しさは綺麗に消え去っていた。
背を向け、一歩を踏み出す。
昇り始めたばかりの清々しい朝日が、泣きはらした俺の顔をまっすぐに照らしていた。
胸の奥には、まだ鈍い痛みが残っている。
だけど、いつまでも立ち止まってはいられない。
だから俺は前だけを見つめ、一歩、また一歩と踏みしめていく。
「……」
前を行くコルネが、ふいに足を止めて振り向いた。
小さな影が重なり、俺の顔をじっと覗き込んでくる。昨夜あれほど泣きはらした目と歪んだ顔を、こんな間近で見られるのは酷く不格好で、居心地が悪い。思わず視線を泳がせ、そっぽを向こうとした。
すると、コルネの口元が優しくほころんだ。
「お前……ちょっと、雰囲気変わったな」
コルネはそう言うと、また前を向き、歩き始めた。
◇
「この山を越えたら、いよいよ獣人の住む土地。ウチらの縄張りや」
コルネはそう言い、意気揚々と山道を進んでいく。
春を迎えたばかりの山は、まだひんやりとした空気の中にあったが、あちらこちらで新芽が息吹き始めていた。冬の白銀から解き放たれ、少しずつ艶やかな色彩を取り戻しているようだった。
俺はコルネに遅れまいと、その背中を追う。
俺の荷物は、前回の山登りと比べて格段に増えていた。
二人分の野営道具に水、食料までは前回通りだ。だが今回はそれに加えて、ショベル、のこぎり、手斧、金づち、大量の釘。さらには太いワイヤー、予備の滑車、頑丈な鉄鎖などなど……。スノーグレイヴで買いそろえた、罠づくりに必要な道具一式を背負っていた。
そして何より、あの『ロード殺し』が一式。
それらを合わせた俺のリュックはパンパンに膨れ上がり、重量も前回の1.5倍近くに達していた。
「お前、山の中で家でも建てるつもりか?」
その重装備を見たコルネには呆れ顔で突っ込まれた。まあ、自分でもそう思う。けれど、新しい山の中でさらに罠の試作や改良を重ねたいという欲望には勝てなかったのだ。
確かに荷物は肩にめり込むほど重かった。
だが、木漏れ日が柔らかく差し込み、鳥たちのさえずりが響く春の山道を歩くのは、思いのほか気持ちが良かった。
何より、無心になれるのが一番ありがたかった。歩いている間だけは、胸の奥に残るあの切ない痛みを忘れられる気がした。
「コルネさん、この山を抜けるにはどれくらいかかりそうですか?」
「そうやなあ。前ほど険しくはないから、一、二週間ってとこやな」
「それなら、そう焦る必要もなさそうですね。今日はこの辺で野営の準備にしませんか?」
「野営って……まだ日没までかなり時間あるで?」
「いやぁ……早く罠の設置がしたいな、と思いまして」
「……」
「……」
「ウチはお前がたくましく成長したと喜ぶべきか、とんでもないアホを生んでしもたと嘆くべきか……」
心底呆れたようなコルネの溜め息を背に、俺たちは陽が高いうちから早々に野営の準備に取り掛かるのだった。
◇
俺は野営地の設営や焚火の準備、夕食の下ごしらえを早々に終わらせると、待ってましたとばかりに罠の設置に取り掛かった。
目を輝かせ、意気揚々とあちこちに仕掛けを施していく俺の背中に、コルネの呆れたような声が届く。
「お前が一番、楽しんでそうやな」
やがて陽が落ち、夕食の時間になった。
干し肉の煮込みスープを椀によそい、コルネへ手渡す。
「初めて入る山ですから、どんな獲物がいるかまだ分かりません。なので小型罠は条件を少しずつ変えて設置してみました。明日の結果を見れば、この山に合う仕掛け方が分かると思うんです」
「そうか」
「あと、『ロード殺し』は一番足跡の多かった場所に置きました。地面もかなり踏み固められてましたから、大型の獣が頻繁に通ってるはずです」
「そうか」
「それと耐久性を見るために——」
「……なあ、アルジャン」
「はい?」
「お前、さっきから罠の話ばっかりやな」
「あ……すみません。つい夢中になってしまって……」
調子に乗って喋りすぎてしまったと反省し、気まずそうに首をすくめる俺。けれど、コルネは咎めるような風でもなく、椀から立ち上る湯気の向こうでふっと口元をゆるめた。
「いや、ええねん」
「え、いいんですか?」
「うん。良いことやと思う。……続けてくれ」
俺は嬉しくなって、再び今日設置した罠について語り始めた。
◇
夜も更け、俺たちは寝床の準備に取り掛かった。
焚火の近くにふかふかの落ち葉ベッドを作り、その上に分厚い毛布を敷き詰める。
「ふぅ……」
俺が先に毛布へくるまると、さっそくコルネが「夜はまだまだ冷えるなあ」と呟きながら、滑り込むように俺の毛布へと潜り込んできた。
当たり前のような自然さで、ぴたりと身を寄せてくるコルネ。
こうして互いの体温を感じながら眠るのは、前の山での野営以来だった。




