奴隷天使の少女
夕方。
二人は町の中心部へ着いた。
そこで宝が足を止める。
目の前には鉄格子。
鎖。
檻。
そして。
首輪を付けられた人々。
宝が呟いた。
「ここは?」
平は短く答える。
「奴隷市場。」
宝の笑顔が消えた。
檻の中には亞人族の子供たち。
獣人。
蜥蜴人。
翼人。
皆、無表情だった。
平は目を伏せる。
見慣れた光景だった。
だからこそ嫌だった。
その時。
檻の奥から声が聞こえた。
「ねえ、お兄さん。」
平が顔を上げる。
そこにいたのは。
銀髪の少女だった。
純白の翼。
透き通るような肌。
天使族。
極めて希少な種族。
少女は平を見つめて言った。
「あなた。」
「悪石平でしょう?」
平の目が細くなる。
「誰に聞いた。」
少女は微笑んだ。
「有名だもの。」
そして続ける。
「忘却の英雄。」
平は目を伏せる。
静かに言った。
「俺は英雄じゃない。」
少女は首を傾げた。
「そうなの?」
「そうだ。」
平の声は低かった。
「英雄なら守れた。」
「救えた。」
「世界をこんな風にはしない。」
少女は黙って聞いている。
平は続けた。
「だから俺は英雄じゃない。」
しばらく沈黙が続く。
やがて少女は小さく笑った。
そして。
鉄格子に手を掛ける。
「忘却のお兄さん。」
平は顔を上げる。
少女は真っ直ぐ彼を見つめた。
銀色の瞳が揺れる。
「私をここから連れ出して。」
奴隷市場の喧騒が遠のいた気がした。
銀髪の少女は鉄格子を握りながら、真っ直ぐ平を見つめている。
その瞳には涙も絶望もない。
ただ。
助けを求める意思だけがあった。
平は目を逸らす。
「無理だ。」
即答だった。
「どうして?」
「奴隷は国の財産だ。」
「連れ出せば追われる。」
「買うにも金がいる。」
少女は黙って聞いている。
平は続けた。
「助けても意味がない。」
「また別の奴が売られる。」
「世界は変わらない。」
その言葉は自分自身に言い聞かせるようだった。
宝が平を見る。
少女も平を見る。
二人とも何も言わない。
だから余計に居心地が悪い。
平はため息を吐いた。
「……いくらだ。」
奴隷商人が笑顔になる。
「へい毎度!」
数十分後。
少女は市場の外にいた。
自由の身だった。
宝は嬉しそうに少女の手を握る。
「よかったね!」
「うん!」
少女も笑う。
その笑顔は年相応だった。
平だけが頭を抱えていた。
「金が消えた……」
「助けたじゃん。」
「財布も死んだ。」
「助けたじゃん。」
「今夜の宿代が怪しい。」
「助けたじゃん。」
平は反論を諦めた。
日が暮れた頃。
三人は町の安食堂に入った。
そこで事件は起きた。
少女が食べる。
食べる。
ひたすら食べる。
パン。
スープ。
肉。
果物。
追加のパン。
追加のスープ。
追加の肉。
宝がぽかんとする。
「よく食べるね。」
少女は口いっぱいにパンを詰め込んだまま答えた。
「だって久しぶりだもん。」
「久しぶり?」
「まともなご飯。」
宝の笑顔が少し曇る。
だが少女自身は気にしていない。
むしろ幸せそうだった。
平はコーヒーを飲みながら言う。
「そんなことより。」
「うん?」
「お前、名前は。」
少女が固まる。
そして。
「ない。」
平の動きも止まった。
宝も止まった。
「……ない?」
「ない。」
「名前が?」
「うん。」
少女はあっさり答える。
「覚えてない。」
食堂の空気が少し静かになる。
「奴隷になる前のこと。」
「何も覚えてない。」
宝が悲しそうな顔をした。
だが少女は笑っている。
「だから名前も分からない。」
「じゃあ付けよう。」
宝が言った。
少女の目が輝く。
「名前!」
「ずっと『お前』はかわいそうだもん。」
「確かに。」
少女は嬉しそうに頷いた。
宝は考える。
「ルナ!」
「普通。」
平が言う。
「却下。」
「じゃあ平くん考えて。」
「嫌だ。」
「考えて。」
「嫌だ。」
「考えて。」
「……。」
宝がにやにやしている。
少女も期待の目で見ている。
平は盛大にため息を吐いた。
銀髪。
白い翼。
空みたいな瞳。
しばらく考えた後、
ぽつりと言った。
「……天音。」
少女が目を瞬く。
「天音?」
「嫌なら別に」
「好き!」
即答だった。
少女は満面の笑みを浮かべる。
「今日から私は天音!」
宝も嬉しそうに笑う。
「よろしくね、天音ちゃん!」
「よろしく!」
二人は握手した。
平は静かにコーヒーを飲む。
これで終わると思った。
だが。
終わらなかった。
天音は胸を張って宣言する。
「今日から私は悪石天音!」
平がむせた。
宝が吹き出す。
「ぶっ!?」
「何でだ!」
平が叫ぶ。
天音はきょとんとした。
「だって平お兄さんが名前くれた。」
「だから?」
「平お兄さんの家族。」
「違う。」
即答だった。
「違うの?」
「違う。」
「でも助けてくれた。」
「そうだな。」
「ご飯食べさせてくれた。」
「そうだな。」
「名前くれた。」
「……。」
「じゃあ家族。」
平は頭を抱えた。
宝は笑いすぎて涙目だった。
「平くん、お父さんだって。」
「黙れ。」
「天音ちゃん。」
「なあに?」
「もっと言って。」
「お父さん。」
「やめろ。」
食堂の客が何事かと振り返る。
平は本気で帰りたくなった。
ひとしきり笑った後。
天音は不意に静かになる。
そして。
「ありがとう。」
そう言った。
平が顔を上げる。
天音は少し照れながら笑った。
「名前。」
「初めてもらった。」
宝も黙る。
平も黙る。
しばらくして。
平は窓の外を見ながら言った。
「好きに名乗れ。」
天音の顔がぱっと明るくなる。
「じゃあ悪石天音!」
「……。」
もう訂正する気力は残っていなかった。
その夜。
三人は宿へ向かう。
だが。
彼らは知らない。
奴隷市場から天使族を連れ出したこと。
そして。
その天使族がただの少女ではないことを。
町の外れ。
暗闇の中。
黒衣の男が報告書を閉じる。
「確認。」
「天使族個体を回収したのは悪石平。」
男は冷たく笑った。
「面白い。」
そして呟く。
「五列強へ報告しろ。」
「忘却の英雄が見つかった、と。」




